真の平和

道の終盤で、弟子は、全ての根本的な苦痛の原因が、分離感にあることに気づく。この気づきが融合へと導き、一体感の境地を弟子に教える。私の中に全てが在ったのである。全ては私だったのである。これは文字通りである。いかなる二元も、そこでは私の中に愛として一つになる。天上的な至福の鍵は、私の中に全てを私として知ることにある。通常、一体性は誤解されて認識されている。つまり、世界の中の全てのものとの一体性、というものである。私の体験では、世界というイリュージョンを認めた上での一体感というものはありえない。錯覚の中での一体感など存在しない。私の中に全てが在るのであって、世界の中に全てが在るのではない。ここは間違いやすい大きな錯覚の分岐点であるため、よく熟考し、覚えておくことを勧める。

私が最初であり、私がアルファでありオメガであるという意識は、魂を超えた意識、モナド意識であり、神の意識であり、真我意識であり、この一体性としての真我を知ることでのみ、全ては平和で在りうる。またそうしてのみ、全てが愛において喜び生きることができる。ここで重要なのは、実際はそれは意識として感じられるものではなく、生命そのものとして理解されるという点にある。 私の中に在る全てである私という存在の状態を知るならば、人は初めて本物の安心を知り、その真に安らいだ心によって、恐怖という恐怖が消え去ったのだということを知るだろう。つまり、分離感を持った「強い者」というものはないのである。どれほど強者に見える者も、また自身が強者であるという感覚も、執着しているものの消失という一つの不幸で簡単に失われる偽りの強さでしかない。しかし真我は、何も失わない。なぜならそれは、失われたり変化したりするものの根源であるものだからである。根源自体はなにものの影響も受けることなく天真爛漫に永遠に愛であり美であり歓びであり、また至福である。

例えば、「隣人を愛せよ」という教えは、もはや最初から間違っている。隣人などいないことを真我は教える。全部私であり、その一なる私においてのみ愛というものは存在できるのである。「隣人」という分離した発想に自身を閉じ込めた瞬間に、本物を知る者は耐え難い苦痛を味わうものである。二元というものは、私と違うものが存在するという事実誤認であり、違うものがもし存在するとするならば、それは不調和を意味しており、その違いゆえに苦しみが内在しており、決して平和というものは不可能であることを知らねばならない。 全ての中に私を見るのではなく、その境地では、私の中に全てを知るのである。

「一つの私」だけが在る。これが実在であり真我であり、これだけがいわば共有されるべき真理なのである。そのとき、万物にはわずかであれ違いというものは存在しない。違う人や違うものという発想は苦痛へ導く邪悪な誘惑である。分離ほど恐ろしいものはない。真我と真理を消し去る意識ほど恐れるべきものはない。だから、我々は瞑想を通し、私を知ろうとしているのである。私を知ることでのみ、全てを知ることができ、森羅万象には本質的にいかなる違いもないことを知り、この究極の安らぎと無恐怖のなかに、「復活」という言葉に込められた意味を知ることになり、一箇の人間でしかなかった者が、一つである神として、「わたしはよみがえりであり、命である(ヨハネ 11:25)」と言うようになるのである。

以上は、あなたの話である。私の話であると同時に、あなたの話である。最初はこの話は現実にはならないが、それは、活発なマインド(具体マインド)が魂によって統御されていないからである。無欲に瞑想を続け、瞑想が次々に教える美しいものを好きになるならば、錯覚のヴェールは徐々に剥ぎ取られる。そして魂が知られるようになる。魂と融合が許されるようになるにつれ、あるとき、魂すら超えたものが知られるようになる。それを、私として知るのである。最初は私と魂という個人的な私を維持したままの接触であり、次にマインドが静かになることでその私が消え去り魂になり、その純粋な意識をオーバーシャドーする存在自体に気づくようになり、最後にそれ自体が私であることが知られる。おそらく、これほど美しい物語はない。神は私である。私は命である。命は一つである。すべては私である。「私たちは神の中に生き、動き、存在しているのです(使徒の働き 17:28)」と聖書は言うが、そのとき我々は、「私の中にすべてである私が生き、動き、存在しているのです」と言うようになるだろう。これが真の平和である。

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