語りは人格か、それとも魂か?

以下は、別の記事からの抜粋である。

目次

文章の辛辣さについて

読む者は、書かれた語を人格のあらわれと捉える傾向があるため、辛辣な語りは、感情や性格による発露と解釈され、語った者は霊的に未熟であると結論づけられることが多い。癒やしが必要な箇所ではそのような要素が自然に湧き出るだろうが、霊的な知識の上での知的高慢もしくは知的錯覚への安住に対しては、癒やしのような生易しさは有害である。

あえて言うが、私(パーソナリティー的側面)は第一光線の弟子である。よって、融合の高波動状態では、語調は「容赦なき意志」に近づく。ましてや真剣な霊的探求の場にあっては、光線的な緩衝の省略が可能とみなされ、言葉の選びは破壊を目的とするがゆえ辛辣で、切開的で、読者のアストラル的感情を斟酌しない。しかしながら、意識は愛に根ざし、愛の中に愛として在る。したがって意志とは、第一光線の弟子における愛の表現であると言うことができ、いかにエネルギーの出所を突き止める能力が必要であるかが分かる。

あなたの記事には人格が出ている

或る人が、或る記事に対して、「感情的であり、人格や性格があらわれている」と率直な意見を述べた。その記事は、実は私が書いたものではなかった。或る礼を失した行為に対し、その無礼な行為が、実は本人にどれだけ霊的な足かせをもたらしているかを、すでに感情に縛られていない、人格や性格が高潔な別の第二光線の弟子が書いたものだった。672夜の全体は私が執筆し責任を負っているが、その記事は私のものではなかったのである。したがって次のようなことが言えるだろう。

「人格が出ている」という言葉は、しばしば次のような前提に基づいている

  • すべての発言には性格的動機があるはずだ
  • 強く語る者は強い性格を持っている
  • やさしく語る者は優しい人格である
  • 霊的な意識から語る者は優しい人格を体現しているはずだ

つまり、これらの前提はすべてアストラル的な鏡像作用を示すものであり、語られたエネルギーの純度や発出源(魂またはそれ以上)を理解する視点が欠けているために生じたものである。魂から来た語りは、時に雷であり、時に乳であるが、そのいずれにおいても人格つまり諸体が通されたというだけであって、個人や人格や性格とは本質的に無関係である。言い換えれば、それはエネルギーを分配する際に、どの光線のフォースを、どの程度含ませるかという、光線構成の技術に関わる問題である。

教師の要件

この方は、「魂の発言は、魂の目的と意図と一致し、愛に支配されており、したがって建設的で、援助と癒やしをもたらすものである」とのジュワル・クール覚者の引用を元に、そのうえで、「良い家庭教師ですら励ましと癒やしを最重視する」と語った。私はこう考える。或る高校に入りたいが、入る学力がない者に対して、勉強不足など、その原因がはっきり分かっているにもかかわらず、「大丈夫」「君なら入れる」「あるがままの君でいい」などの言葉で終始させるならば、その家庭教師はサタン的である。しかも家庭教師はそれでお金を稼いでいる。

これは霊的な話である。高位の意識に入りたいと願う者に、なぜ彼が入れないのかは、すでにその意識に入っている者には明らかである。峰に立つ者は、どの岩が足を滑らせるかを知っている。そのうえで、「励ましと癒やし」を最上位において、「あるがままの君でいい」とか、「君はすでに至高の存在だ」とか、「君はすでに神の大愛の中に在る」とか、その者の幻想に迎合する慰撫の言葉を重ね、意図的に甘言を並び立てようものならば、私は相応のカルマを背負い、その生涯はおろか、次の生涯では容易に立ち直れないような境遇に置かれさえするだろう。私の進学と、他の誰かの進学とは同じことであり、私が別の姿を借りた私に害をもたらすという意図は存在できないことを明言しておく。

人格的性格の投影による評価

言葉が「誰に向かって放たれるか」によって、どう受け止められるかが決定されるという事実は、人格の世界で語る際に、語り手が留意すべき要素の一つである。しかし、霊的探求者とは、本来、自我――すなわち人格の構造――の破壊を志す者であり、真我の顕現をその目的とする存在である。したがって、文章の評価基準は、語られた言葉が快か不快かといった個人的反応ではなく、その中に真実が貫かれているかであるべきだ。もちろん、誰に語るかに応じたアプローチの選別は必要である。しかし、霊的な真剣な話のなかで、我々はどのようなおべんちゃらも、軽薄な慰安の言葉にも、そこにこそ「魂なき語り」を識別しなければならない。願わくは、言葉の衝撃そのものではなく、その衝撃が照らしていた対象にこそ、眼が向けられることを。

目次