新時代の奴隷解放宣言

探求なき歓喜

「今喜んでいい」という事実は、新時代における奴隷解放宣言である。
我々は現在、自身の空虚を埋めうる素材の奴隷である。喜びを感情だと思っているため、喜ぶためには、喜ばせる素材が前提であると考え、素材のために生きている。つまり、錯覚の奴隷である。

喜びは感情と無関係に、魂的にいま内在しているものである。この場合、素材なくして、現在、すでに喜びなのである。

会社員は言う。「これから仕事だというのに、なぜ喜べるのか」と。
感情や気分の話を私はしていない。感覚をすべてアストラル界のものに結びつける習慣は、情緒的な感覚以上のものを知らないからである。

感情や気分は、素材に依存している。言い換えると、感情や気分のために生きている人は、素材に依存しなければならない。これは明確に無知である。

素材がいらないことを知ること、これは知恵である。

すでに自由

私は人類に対し、「今喜んでいいことを知りなさい」という奴隷解放宣言を魂から出す。
すると、富や地位や誰かという素材によってのみ、自身の空虚は埋められると信じていた心の奴隷たちは、心労ならぬ心の牢の扉が勝手に開かれ、刑期を終えてもおらず、また償ってもいないのに、釈放されてもいいという事実に驚くだろう。

彼らを縛ったもの、つまりカルマとは関係なしに、自由と喜びに生きれるという真実に驚くだろう。

カルマとは、個人に属するものである。個人の属性である感情や気分以上のもの――魂の永遠なるひとつの喜びや愛を知ったなら、出来事やカルマによって、その神性の発露が邪魔されることはないのである。

ゆえに、喜びは、個人のいかなる運命にも、またいかなる情緒にも左右されることなく、永久に「我がもの」である。

無知ではなく知恵と一致してさえいれば、「我がもの」であり、「私そのもの」であり、これがただ在ることの祝祭である。

それは、「素材なき喜び」という名の啓示であり、終わりなき探求の終焉としての福音である。

探求という芝居を超えて

感情に生き、「素材」を幸不幸の前提とする奴隷的発想から自由になるならば、「素材が欠けているから不幸であり、私は苦しむべきだ」という自己決定からも必然的に自由になる。

霊的な探求者は、霊的な必要事項を言い渡される。雑念ある者は、静けさという「素材」を獲得しなさいと言われる。すると、「内的な静けさ」がいつまでも私に欠けているとき、それは霊的な不可能性すなわち絶望を意味するようになる。

しかし霊的な必要事項とは、自我によって獲得されるものではなく、自我を手放すことによって知られる霊的な永遠なる属性(神性)のことであり、それを理解するとき、霊的な必要事項というものは、実際は最初から欠けていなかったことを知るのである。

探求者が自我ならば、自我が例えば「静けさ」を獲得すると思って努力する。これまでの話を聞いていた者は、これがすでに論理破綻していることに気づくだろう。もし本当に気づくならば、そのまま全く思考ができない状態にすらなる。

完全に自分、つまり自我が分かってしまったとき、彼は自身が身じろぎもならぬことを知る。何もできなくなる。何かをすることが全て錯覚に基づいていたことを知るからである。

真の解放:自我の沈黙と魂の現前

こうして、「素材というイリュージョン」に惑わされていた「しようとする者」は去る。
知恵は、このようにして錯覚を破壊し、真理の力によって押し黙らせ、そのまま実相に入らせる。

このとき、霊的な必要事項という素材が私の内部に備わっていた、という事実は明らかであり、霊的な道や探求という素材集めからは呆気なく解放される。

それは自我が集めうるものではなかったのである。

この意味が分かるとき、いかなる努力も無駄だという事実は、自らを解放する良い意味として受け取られるだろう。

無知は知恵に届かない

現代すなわち旧時代の探求者たちはどうなのか。
以上の話を知らず、自我で探求しているつもりになっている。

しかし自我は何も探求できない。無知が知恵を知ることはできず、知恵が無知に教えることしかないことを知り、無知は永遠に知恵にはなれないという事実が真に知られるならば、無知は騒動をやめざるをえないことになる。

これが静かになるということである。このときのみ、真に知恵が現前しうる。

変容の実態:それは「訪れる」のではない

以上を言い換えると、自我がその根源的な無能性を悟り、それでいいことを知り、自我としては黙らざるをえないこと――真実そのものが可能にさせる黙ることしかできない状況に陥るならば、

魂がその者に訪れ、その者の中に入り、彼は魂となる。

いや、イメージさせるのではなく、もっと誠実に言おう。

魂が訪れるのではない。黙したその瞬間、その者は魂であり、すでにそうであったことが明らかとなる。
これが変容の実態である。

探求を始めたときの者は去り、神性が新生する。
すると、つい最近まで「内的な静けさ」を求めていると思っていた者でさえも、

我はよみがえりなり、いのちなり(ヨハネ11章25節)」と言い始めるのである。

結びの宣言:選ぶ者は誰か

ところであなたは、「今喜んでいい」ことを知っただろうか。

「私は真剣です」という芝居はもういい。「今喜んでいい」ことをこの場で知るのかどうか、私は問い詰める。
日々、記事を読むためにこのブログを訪れるのではなく、今、奴隷解放を君は決意するか。

それとも、虐げられた一箇の動物のように、
あるいは、悪に対し自分ごとではないとして見て見ぬふりをする偽善者のように、
今回もまた、逃げおおせることを選ぶか。

それは自由である。

真剣さがもし演技でないならば、
誠実さがもし偽りでないならば、
この今、我々は内を見つめ、内で在ることで、
喜べないでいる自身の荷物――執着している素材を心の奥深くに見つけ出すことができる。

その手放せず抱えていたしこりを見て、知り、
すべてを邪魔していた、あるいは「している」ものが自分であること、
その「しこり」と自身の同一性を、いま、知ることができる。

それは選択の問題である。

もし見たとき、そして知ったとき、「しこり」がどのようなものであれ、形態は破壊される。
魂の光によって融解される。

なぜなら、それは非実在だからである。
あなたはその破壊と融解を、喜びをもって眺め、味わうだろう。
そして何もかもが去り、ほほえみをたたえながら、あなたは存在という祝祭の宴に喜ぶだろう。

この宴に「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない(マタイ22章14)」。
そうではなく、選ぶ者が少ない。参加する意志のある者が少ない。

逃げるか参加するかを、私は要求する。

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