喜べなかった者へ

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「今喜んでいい」の命題とその転換点

前の二つの記事を読んで、あなたは喜べなかっただろうか。「今喜んでいい」という号令は、自分には適用できないものだと結論づけたであろうか。「今喜んでいい」という呼びかけは、許諾と選択の性質を持ち、完全にあなたに依存している。つまり、「今喜んでいい」という命題が、もはや素材による条件づけに依存しないということが明らかになるとき、自我――すなわちマインドは、「今喜んでいい」という事実を「知る」ことになる。この「知る」とは、ただ認知することではなく、それによって自己に対して「許してよい」と了解すること、すなわち、自分がどのような環境にあろうとも、行為や経験の選択に対して霊的主体性を取り戻すことを意味する。そこではもはや、喜びは感情的選択ではなく、それら素材の奴隷が排除されたことによる、霊的事実の顕現である。

自我による拒否と無意識的逃避

喜びが「素材」に依存しない以上、その事実を見ようと選択し、あたかも犯人を追っているはずの者が、自分が犯人であることに気づいたら物語が終わってしまうという事実に気づき、事実を知らなかったことにしようとする無意識的な反応のように、「今喜んでいい」という事実から逃げようとすること、ふたたび自分を忘れようとすること、これらを選択するのはあなたであり、そのような自我の性質を許すのもあなたであり、許すことで許されたものから離れるのもあなたであり、このような自我の条件づけから離れた視点、誤った自己同一化のない領域にて初めて、「今喜んでいい」という事実が知られ、そのような号令を、まさに「素材」なしに、自らに発してよいのだという許諾性――自身に対する奴隷解放的な自由と許しの選択権を自身が持っていることを知るのである。

朝の目覚めと時間構造の復元

ところで、「今喜んでいい」という真実が消えるのは、あなたが朝目覚めた瞬間からである。自分が誰であり、どこへおり、その日どこへ向かうのかをあなたは思い出す。この瞬間に、時間軸の上に自身が決定され、「自分が誰であるのか」という記憶に由来する過去と、「どこにおり、どういう立場や状況であるか」という記憶に由来する現在と、「今日何が待ち受けているのか」という記憶に由来する未来とが交錯し、合致し、「ゆえに私は今日は憂鬱だ」とか、「ゆえに私は今日は楽しみだ」とかいった結論が無意識的に導き出され、そのような「素材による解釈」によって、気分や情緒が生まれ、もとより在った喜び、すなわち現在というものを覆い隠すのである。

「現在に在れ」という欺瞞、そして素材なき瞑想へ

世の教師は言う。「現在に在れ」と。「今この瞬間に在れ」と。これらの教師が見落としているのは、人々の「現在」が概念でしかないという点である。あなたは決して現在を知らないし、それは知ることのできる性質のものではない。あなたにおける現在とは、想像である。はっきり言うが、現在とか、永遠なる今といった言葉が意味するものは、脳とマインドが超えられたときに知られる存在の状態であり、それは概念でもなければ体験でもない。であるならば、「現在に在ろう」と試みる自我、という構造の欺瞞が暴かれるはずなのである。言い換えると、これを識別する者にとっては、「現在に在ろう」と試みること自体が、すでに時間構造への回収であり、「現在」という実在に逆行する自我の行為であると明瞭に理解される。よって、これを知りながら、「現在に在る」ことを教えの軸とするならば、その者は、人間の意識を見落としているのか、もしくは、実際は「現在を知らない」可能性がある。あるいは、かつてそれを「体験」したが、「今は」その記憶から指導しているのかもしれない。我々は教師の権威の前で思考力を失うのではなく、つまり教師やその話や方法ではなく、絶対的にそれらの素材なしに、ただ自己のみを相手とする瞑想でなければならないのだ。

無時間の顕現としての「素材なき喜び」

事実はこうだ。脳とマインドが超えられた領域――魂の意識においては、その「永遠なる現在」しか知られていない。言い換えると、魂の視座においては、記憶という名の思考に由来する時間的自己同一化は、もはや成立しない。なぜなら、「思考による自己の規定」という構造そのものが、魂の光の中では透明化され、把持される余地がないからである。したがって、魂の観点に在るならば、「現在に在れ」という命題は、理論的に成立していないため、意味不明である。現在しかないと言うより、その存在の状態が時間ではないのであり、その意味において、その状態は非時間ゆえに現在だという説明が適切である。よって、「今に在る」などの命題が、およそ自我には到達不可能な司令であることを、それは意味していることになる。しかし、「あなたは現在を知らない」ことを教え、「あなたの現在とは想像である」という事実を認識させうるならば、その教師は誠実さを表現している。時間が、脳意識を基盤とした想像力の産物であることが真に理解されたならば、我々は時間意識に生きることはできなくなる。言い換えると、時間という思考との同一化はなくなり――

「自分が誰であるのか」という記憶に由来する過去と、「どこにおり、どういう立場や状況であるか」という記憶に由来する現在と、「今日何が待ち受けているのか」という記憶に由来する未来

これらの思考は存在できなくなり、ヴェールは剥がれ、無時間なる現在が現前するのである。これが「素材なき喜び」の本質である。時間軸という思想を知らないこと、時間思想の前提である記憶や、その結果としての思考からも自由であること、つまりはそこに残ったもの、「私」で在ること――この沈黙の爆発が「素材なき喜び」の本質である。

喜べない自我における第一の識別

以上をもって、本質に戻る。「あなたは喜べなかっただろうか」。もしそうなら、喜びを覆い隠しているものを知ることが第一ステップである。喜びでないなら、今、何が感じられるだろうか。言葉では言い表しようもない何かがハートに在るのではないか。何かは分からないが不快には違いないものが在るのではないか。それを見たならば、もう少しだからついてきてほしい。

感覚知覚とアストラル界の本質

通常、不快なものに対する人間の反応は、恐れから来る敵意であり、身を守ろうとする防衛反応である。しかし、不快などの感覚知覚もまた、マインドを介した解釈であることを理解するだろうか。あなたに不快なものが、必ずしもカメムシに不快であるとは限らない。感覚知覚の解釈は、その個体のマインドに由来している。すべての存在に意識とマインドはあるが、ただ人間と同程度ではないというだけである。マインドが具体的に解釈し、感覚知覚を決定づける。この意味で、アストラル界は実際は存在しないと秘教は言うのである。アストラル界とはメンタル界のことであると、しばしば踏み込んで言うのである。

不快と敵意の非実在性

ならば、マインドの解釈がないならば、ちょうど無意識の者がそう判じ得ないように、それは快でも不快でもありえない。つまり、本質的に快でも不快でもないものを、個体のマインドの解釈によって快か不快かが決定されているというならば、実質的に、感覚知覚は決定や推測といった具体マインドの領域の話であり、事実ではなく、あるいは事実というものはなく、全体がそもそもマインドの領域なのであり、解釈の世界である。この意味で、世界はイリュージョンである。

融合と解放への移行

ならば、喜びでなく、不快として解釈されるものが内に在るとき、それを敵と見なす反応も、不快と感じるべきだという不快感の前の決定も、結局はマインドの解釈であり、本当ではないことを知るならば、敵意や恐怖でそれと相対する必要はもうないのである。つまり、色眼鏡で接することで見えるものを見えなくさせるというトリックの中にあえている必要はないのである。もっと簡単に言うと、それは敵ではないし、不快でもない。これが理解されるとき、ただ、我々は恐れずにそれを見て、見られているものと見ている者が同じであることを知るだろう。

真の融合

これが、あらゆる錯覚を解消するための融合というテクニックである。本来は、以上のような理論的なものがそこに介在することはなく、ブッディつまり直観によってイリュージョンは排除され、知的な自動性によって融合を妨げているマインドや思考が退けられ、一体であることによってのみ、つまりあらゆる思考や既知なるものとの同一化がない状態によってのみ、その「孤立した統一」という存在の状態が、非時間であり、それはあなたからの自由と解放であり、よって、あなたは、あなたでなくなることで、あなたに属するすべての不幸と不快から、あるいは幸福や快から自由になり、それらを超えたものを知るのである。したがって解放された先人は次のように言う。

喜び。これは魂の特質であり、整列を達成したときにマインドによって認識される。…熱誠家が関与しているのは幸福であろうか。それとも喜びであろうか。もし喜びであるならば、それはすべての存在との一体化の結果として起こらなければならない。そして、それは結局のところ、幸福に置き換えて解釈できるものではない。

アリス・ベイリー「ホワイトマジック下」p.67

人が接触するすべてのものの中にすばやく真理を見て、自動的に真なるもの、つまりリアリティーであるものを選ぶようになったとき、彼は次に喜びに満ちた行動という教訓を学び、至福の道が彼の前に開ける。このようになったとき、秘教の道を進むことができるようになる。というのは、具体マインドはその目的を果たし終え、彼の主人ではなく彼の道具になり、障害物ではなく解釈するものになっているからである。

ホワイトマジック上 p.108

選択と融合の現前

以上を、高い段階の者の話として、あるいは他人事として、逃げ口上になるとして喜ぶのではなく、あなたは今、真我なる喜びを妨げている自身の内側を見ることを選択するであろうか。そうであるならば、あなたは、その「対象」と意識的に「共に在る」ことを選択しなければならない。共に在るとは、融合したということである。もし、不快と感じられたものと融合するならば、「それは結局のところ、幸福に置き換えて解釈できるものではない」喜びに到達させるのである。あなたは、不快から逃げてきた。苦痛から逃げてきた。それらの解決として霊的なものを求めてきた。しかし、そのような感覚や希望は解釈であり、事実ではないことを以上で述べてきた。

だから、恐れずに、嫌がらずに、よって何も考えずに、ただそれと共に在るならば、融合に導かれるのである。あらゆる分離は統一と調和に解消されるのである。この変容と平和は、瞬時に起こる。解釈や思考や時間に生きないと選択し、自身の何もかもをも許し、受け入れ、敵対してきた苦痛や不快とすらも共に在り、抱擁を選択するならば、時間の領域とマインドを超えた無時間の領域との行き来は簡単なものになり、そのとき、リアリティーの観点から世界というイリュージョンや感覚知覚というイリュージョンは照らされ、また追い散らされて、それまで苦悩の温床であった世界にあっても、「喜びに満ちた行動という教訓を学び、至福の道が彼の前に開ける」ようになるのである。

最後の問いかけ

そして、それでもなお、
あなたは、これを「読んだ」と言うであろうか。
何ひとつ変わらぬままに。

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