賛美歌

瞑想から出て、一時的にこの世に身を晒し、また目を曝すならば、この世はまた新たな戦争と戦火にさらされている。神は美である。我々が神を忘れ、真我から離れ、個我に屈するならば、その世界は醜悪である。しかし、魂と霊の賛美歌意識からすれば、この醜悪さもまた美と完成における不可欠な部分であり、あらゆるものがそうであるように、善きものである。躓き傷ついた者がより強靭になって立ち上がるように、外的な完成はあらゆるものの見た目上ないしは感覚知覚上の一時的な犠牲を伴う。人類は、神の意識や、神の生命といった本質に対して、まだはるか遠くにいる。我々が瞑想で賛美歌意識へ拡大しようとも、そこにはある種の苦悩がある。それは完成した賛美歌ではないからである。この賛美歌は、いわば全員で奏でるものであるゆえ、一人でもまだ目覚めておらず、苦しんでいる者がいるならば、我々の賛美歌もまた苦しみを内包せざるをえない。すべてが贖われるまで、完成した真の賛美歌にはならない。

この世は、完成への抵抗で成り立っている。それが平和運動であれ、個々の助け合いであれ、本質的には神への逆行である。それは個人や分離した自己という、一なる生命から堕落し、意志を個人的な意志へと歪曲し、おのれを保持し、個人として行為していると考えているがゆえである。我々は想念とマインドの犠牲者であり、見ていると信じているものは、おしなべてイリュージョンである。瞑想者は賢さへの第一歩として、見ているものから目をつむる。そして、本当に存在するものをおのれとして知り、それまでの非実在に関しては無関係なものとなる。個人が病気であれ、苦境であれ、彼はそのような話から自由になり、至福とともに、すべてが美しいことを知るだけである。

とはいえ、苦しんでいる兄弟を助けたい。簡単に助かることを知ってもらいたい。苦しむ者にしか、この種の話は届かない。生きていることがいっこうに苦しくない者は、今日も遊んでいる。したがって、苦しむ者だけが幸いである。しかし、その「己」を保持したままでは無理であることを理解せねばならない。あなたが誰であれ、その者と真のあなたは完全に無関係である。瞑想者は、思考をしずめるように教わるかもしれないが、このような抵抗がどうして瞑想でありうるだろうか。個人的な意志で瞑想してはならない。個人は真我とは何の関係もない。個人がいないとき、意識は真我を知る。しかしこの世の瞑想は、個人が行っている。それは全く瞑想ではない。

ベイリーの本に、「新時代の教育」というものがある。そこではアンターカラナに焦点が当ててある。アンターカラナについて教えることが、なぜ新しい時代に最も重視されるべきなのかは、到達した者しか知らない。アンターカラナが構築されていない場合、個人は、霊的な書物に書いてあるような意識状態に入ることができない。このことを教える者は少ない。霊的で内的な「器官」の発達が必要なのだが、この器官の構築は、個人が介在しないことによって首尾よく進展する。間違った瞑想、つまり自我による瞑想は、構築をただ遅らせ、永遠に個人をその想像の世界に縛り付けるだけである。我々は、本当に何もする必要がない。「する」のは神の力であり、そのようなエネルギーの歪曲つまりフォースと同一化するならば、その生涯でアンターカラナは構築を妨げられ、霊的意識に入ることは難しくなるだろう。私が言っているのは、何が間違いなのかに気づかねばならないということである。

私は瞑想を誰かに習ったこともないし、本に書いてある瞑想法で到達したわけでもない。それらで到達することはない。それらはただ余計なものであり、いらない。我々の瞑想は、あえてその「自分」で難しくしている抵抗であり、「すること」と関わった無知の産物である。いったい誰が「する」というのか。一つの意志があるだけである。神の意志が真の自然であり、それ以外はすべて逆行である。誰かが教えることをすることは、マインドのそれまでの欺瞞の一環であり、自我や自分であり続けたい欲求の延長である。つまり、元気がよすぎる。それは沈黙とは程遠い。肉体や見た目上の沈黙は瞑想ではない。偽物を本物に明け渡すこと、言い換えれば諸体を魂に整列させること、このようにしてマインドを乗り越えること、これらを可能にさせる力におのれを委ねること、これが沈黙であり知恵である。これが無抵抗であり不自然からの自由である。それは「する」ではなく「在る」に属している。

ところが、我々は瞑想中に騒いでいる。霊的な何かを求めているからである。それは自我の欲望であって、我々が関わるべきフォースではない。平均的な瞑想者はこのような識別ができないでいるが、考えさえすれば、それが自我の欲望にすぎないことは認めざるをえないだろう。自我が何をしても、真我から遠ざかるだけである。この世のものなら、自我の努力で手に入るかもしれないが、永遠なるものは自我の騒動によって見えなくなるだけである。「私は静かにできません」という悩みがある。彼は、静かにすることが行為だと考えているのである。そのような錯覚と関わらない状態が静けさであり、その静けさを妨害しているのは、静かにしようという堕落した動機――霊的野心である。静かにできないことは、いっこうに何の問題でもない。なぜなら、静かにさせるのはあなたではないからである。この最後の文章を忘れたとき、あなた方は再び迷うだろう。

瞑想を真に可能にさせる力は、自我の力ではない。後者は無知に由来する抵抗であり、真理を殺戮するものである。このような自我の力と関わらないならば、真の力や真の意志というものを知るだろう。それは神の力であり、神だけが人間に不可能なことを可能にさせる。言い換えると、物質は霊に従うことで霊化される。それはエネルギーとフォースの科学であり、初歩的なオカルティズムである。それは難しさと真逆の道である。例えば、このような私の話の意味が分からないとしよう。真の瞑想者は、分からないことに意義を唱えない。分からないことを分かろうとする意志がない。分かる必要がないことだけを知っている。何も知る必要などない存在の状態だけを愛している。つまり、彼は何もしない。

私と一緒に瞑想したいと言う人がいる。彼は私のそばで瞑想するかもしれないが、私からすれば、ずっとうるさい。精神のざわめきがずっと知覚されねばならない。この伝導体から放射される歪曲の比較的少ないエネルギーが、彼に働きかけ、彼をより容易に静かにさせる。すると彼は、通常なら不可能であった意識を体験し、私に感謝するが、私は全く何もしていない。この肉体は無数の道の中の一つであり、神の力を比較的純粋に周囲に流しやすい、いわばこの世のチャクラのようなものである。私と思われているものは、ただのセンターでしかない。それは個人の力ではなく、そのような錯覚に汚染される前の力を伝導する知的で意識的な単位でしかない。

神はどこにでもおられるから、わざわざ私のところに来る必要はない。しばらく個人はうるさいだろうが、何年か純粋に瞑想するならば、神の力がアンターカラナを構築し、あの高所意識に入ることが許されるようになるだろう。地上にいながら、天国に入るだろう。神の王国に入る者とは、純粋だった者である。純粋とは、性格の良さでもなければ、個人的な善良さでもない。それらは副次的なものであり、純粋とは、諸体のフォースを神のエネルギーにどのくらい置き換えたかではかられるものである。その者の人格やパーソナリティーとは何の関係もない。私を前から知る者ならば、「なぜあの者に」と言うか、「偽物」とみなすか、「嘘を言っているだけ」と思うだろう。純粋さは、外的なものではかるものではない。外的に正しく純粋な者ではないから私には無理だろう、と思っている人には、それは関係ないことを知ってもらいたい。真我は個我とは無関係である。個我に一定の正しさやバランス感覚は最初に求められるが、ひとたび神の力に入ったならば、もはや関係のないことである。それまでは一定の道徳が基準や支えにはなるが、それは真理においては偽物である。この世の道徳は霊的には堕落である。霊は、いかなる意見や見解からも自由である。

「私に霊的な可能性はあるのだろうか」と不安に思っている人は多い。ある人には、可能性があることを確信させることで安心させねばならず、別の人にはそのような話と真我は無関係であることを教えねばならない。このように、本物を知るまで、つまりアンターカラナの前半が少なくとも完成するまでは、霊的なものが分からないため、一時的に個人は混乱したり恐怖したりせねばならないだろう。私の場合は、たとえば悟りたいとか、霊的な達成をしたいという目的で瞑想していなかったため、進歩が速かった、もしくは、妨害が少なかった。そういう資格は私にはないと思っていたし、準備が整った者にはそういうことも訪れようが、私は準備が整うレベルではないのだから、そういう話とは関係がないと思っていた。ただ静かにしていることが好きだったから、静かにしていただけであり、徐々にその心地の良さが、この世のあらゆるものを凌駕するようになり、したがって瞑想が可能な時間にただその静かな意識に入り、至福と神に病みつきになっただけである。だから、自我の霊的な欲望から瞑想している人を見るたびに、もったいないと思う。その生涯ではほとんど進歩しないかもしれないのである。霊的なものは、求められる必要のあるものではない。これが分からないのである。よく言うように、準備が整ったものには必然的に向こうから訪れるのだから、彼が来られるまでは、ただ静けさに酔いしれて心地よくしていればいい。個人で無理矢理に集中しようとしたり、力んで瞑想したり、このような抵抗を無知と知り、個人として何もしないなら、やがて神の力が我々を上回るようになり、ゆえに、すべては神になり、すべては美しくなり、我々のハートには賛美歌しか流れなくなる。

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