山田太郎

私は、これを書いている男ではないことによって、あらゆる難を逃れている、という文章から再び始めよう。個人意識は、究極の災難である。それは本物が分からない意識であり、偽物を本物と思い、また見なしている極度の苦痛である。「私」というものは想像である。その他、目に映るあらゆる現象や形態も、根本的には想像の産物である。いわば、神のマインドの結果である。そこでは、あらゆるものが分割されており、分割されたものそれぞれに、意識が宿っている。意識は純粋だが、意識をマインドがオーバーシャドーするならば、それはマインド意識であり、天国は地獄になる。

意識は純粋である。具体マインドの活動と、生み出される想念との同一化が人々という地獄意識を維持させている。そこで、静かにするとか、マインドを鎮めるとか、ヒントがこの世では教えられている。すると錯覚に見舞われている意識たちは、それを達成しようとする。その達成を目標にする。「悟りは私の霊的目標です」と言う。

もし私にそのような想念が噴出したとして、私はそれに気づくだけ、見るだけであり、無関係を貫き通すだろう。全く関わるということがないのだが、あなた方は想念と常に関わっている。出てくる想念が、何かしらもっともらしいものだと考えている。いかなる想念も無価値であり、また邪悪な誘拐犯である。霊的子供は、この想念に絶えず騙され、連れて行かれ、地獄を見せられている。マインドが真理の殺戮者なのであり、瞑想者とはマインドと関わらせない力――本物だけと一致する者である。

霊的目標を持った時点で、その人は間違いに気づくまでは帰って来れない。彼らが拉致されたままであること、そして拉致された先で洗脳され、むしろそこが居場所になってしまっていること、それが間違いであることに気づくようになるためには、そこが苦しいこと、そこから抜け出したいと考え始めるぐらいに発達していなくてはならない。普通の人は、まだその自分であることに、真剣に苦しんではいない。古い魂つまり経験を積んだ発達した魂は、肉体を自分とみなす意識に苦しんでいる。つまり人で生き、人として行為し、自分として孤立して、また分離して生きていることで苦しんでいる。この解決は簡単であると私は言う。なぜなら解決したからである。

解決とは到達ではない。方法や行為が導くものでもない。本を読む者は、この種の錯覚に逃げ込みやすい。だからこの世では、「覚者」の本を読みまくって知識だけ蓄え、解読したと思い込み、つまり驕り高ぶり、それをセミナーや講座で高額な料金を取って他人に教え始める者もいるではないか。彼らはそれが奉仕だと思っているようであるから言うが、あなたは自分の首を締めていることを知りなさい。そのようなことをやりたいのなら、神がそうしているように、無料でやりなさい。あなたは、この世で価値のあるものは何も自分に入ってこないという、無報酬を貫きなさい。霊的教えを仕事にすることをやめなさい。すると、神はあなたに対し、生きるために必要なものを、別の手段で与えてくれるだろう。そのためには、あなたは邪まであってはならず、先生などと呼ばれて知っている者を気取る欺瞞も許してはならず、あなたは実際は本物を知らないのだから、知識では知ることができないことを、知識がなくなった状態で知りなさい。知識を拠り所にしていないと恐ろしいから所有している事実を認めなさい。あなたの空虚を埋めることができるのは知識ではない。今は一時的に機能していようが、あなたは無力なままである。知識で真理へ至れるなら、誰でも覚者である。だから、知識をすべて放棄し、完全に静かになることで本物を知りなさい。すると、あなたが今やっているような、本質的には悪寄りであることをしなくなるだろう。そうすることであなたは解放されるだろう。分かりましたか。

一方で、このような教えを受講する側の騙されやすい弱者にも同様のことを言わねばならない。学びは一時的に価値があるが、その後はすぐに障害になるだけである。知識の探求はきりがない。誰かの本が気に入ったなら、二冊目に手を出したくなるか、新作が出るのを待つようになるだろう。そのような遊びをやめなさい。本当は自我で遊んでいたい自分を批判なく認めなさい。私は歯医者ですとか、私は主婦ですとか、外的な個人はあなたではない。そういう想念と同一化しているだけであることが分かりますか。簡単に助けることができるから聞いてください。本物は、いかなるあなたの試みによっても知ることはできない。あなたのその騒動が止んだとき、あるいは、その騒がしさを静かにさせる力の方をあなたが好むようになり始めたとき、理解できるようになるだろう。あなたは到達しているが、到達していないという状況証拠に夢中になっているだけであり、その覆い隠している無知の本質を理解しなさい。それはマインドである。

偽の教師は言う。「マインドを静かにさせろ」と。本物の教師は言う。「マインドを静かにさせる力が本物である」と。偽の教師は、あなたで何かをすることを教えるが、本物の教師は、あなたではない力に目を向けさせることに注力する。偽物は自我を強め、本物は自我を滅する力を強める。この意味と違いが分かりますか。

人生とは、勝手に起きていくものであり、あなたによってではない。あなたは空虚だから、たえず理想と目的地を探しており、そこへ向かっていると思い込んでいるが、この遠距離ドライブにおいて、実際にあなたを運んでいるのは乗り物である。車や電車がそうであるように、それは燃料によって動き、動いているものによってあなたは運ばれている。肉体も同じである。そのうえで、自分が向かっていると思ったり、そうみなしたりするのをやめなさい。あなたはひたすら条件づけられており、つまり動かされているだけであり、そのような外的個人とあなたは完全に無関係であることを今知りなさい。

あなたが山田太郎だとしよう。以上を知るならば、もう山田太郎である必要はなくなる。そういう話は去る。山田太郎はもうしばらく世で動き続けるだろうが、やがて老い、病気か何かで死ぬ。それは分かりきったことである。だから、今のうちから、山田太郎で生きる習慣を捨てなさい。どうやって。本物を知ることによってに決まっているではないか。偽物を破壊するのは本物だけである。本物を知るためには、すでに働きかけている本物の力――偽物を破壊しようとしている真の力の方に焦点化し、新しい同一化を始めるだけでいい。この種の話の本質を実践的に学ぶことができるのが瞑想であり、この瞑想は、いかなる他人の教えとも交わらないときにだけ可能なものである。教えや知恵や知識は、本物由来でなくてはならない。でないと理解できない。このような文章による外的なヒントはすべて偽物に属している。悪意はなく、善意のもとの文章であるにせよ、そして本物由来の文章であるにせよ、あなたにおいては偽物である。なぜなら、あなたは概念で理解しようとしているからである。マインドでは決して理解できない。

「あの人は静かだ」と言うとき、それは存在の状態を指しており、行為を指していない。にも関わらず、ほとんどの人の瞑想は行為である。そして抵抗である。真の瞑想は最も簡単なものであり、それは無抵抗である。咲き誇る花々にも似て、いかなる想念とも関わらない究極の怠け者状態――自然状態である。逆に、人間はすべての想念と関わる働き者である。つまり難しいことをしている。瞑想状態に在る者とは、関わらないことによって何もしていない存在の状態を指す。本物の力だけがその媒体を通っている自然状態であり、その媒体の意識は、ゆえに至福なのである。ゆえに、山田太郎の災難から逃れ続けていられるのである。

「静かにする」という言い方は間違っていることが分かるだろう。静けさとは存在の状態である。昨日、家内と映画を見ていた。その中で、普通の女が次のように言っていた。「ここは静かで落ち着きますわ」。すると男が言う。「そうですかねぇ」。そして女が言う。「こういうところも少なくなりますわ」。――私はこれを見て思ったが、静かであることが落ち着くことを、その女は分かってはいるのである。なぜ静かであることが落ち着くのか、という疑問にまでは至ってないだけで、静けさを喜べる本能には気づいていることは確かである。しかしこのような人も、次の瞬間には仕事のことを思い出し、子供のことを思い出し、己が人生のことを思い出し、静かでなくなる。なぜなら山田太郎で生きているからであり、山田太郎はこの世で強かろうが弱かろうが本質的には無力であるゆえ、常に人生は恐怖が根底にあるからである。だからもったいないと思った。静かで落ち着くのなら、その静けさをもっと好きになり、もっと静かでいる時間、静かで在る時間を楽しめばいいのにと。これが難しいことなのだろうか。誰においても簡単なことである。にも関わらず、世の中では瞑想法というものが溢れ、それが事実であることを信じる知的弱者を食い物にし、事を大げさにしているのか。静けさは方法なのか。それとも本質的な存在の状態なのか。しっかり考えてもらいたい。言っている意味は分かると思うのだが。そして分かったなら、あなたはすでに静かでいられる。静かで在ることが心地良いと、あの映画の人のように同じく言える。あとは、その静かな心地よさをもっと愛し、もっと愛すがゆえに、その静けさに喜んで沈潜するだけである。これが方法だろうか。いや、これは霊的本能である。

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