今日は、連続して二つ目の記事を書こうか。どのようにしてこの男は記事を書くのかを書こうか。彼は書く前に、何を書くのかを全く知らない。何かを書こうという意図を持つことは基本的にはない。なぜなら、意見を持っていないからである。この世で何かを伝達するためには、意見的な体裁に見せる必要があるが、私じしんは、いかなる意見からも自由な状態に在る。したがって、無限に書くことが可能である。
しばらく前に、自称アーティストを名乗る肉体が、私に「ネタがない」と言った。この者は、いわゆる一発屋である。なぜ最初のものだけ売れたのか。それは、純粋に他人のために創ったものだったからである。それが世の人々の心を感傷的に打ち、同感と同調を生み出し、「売れた」のである。その方向性で二作目を、と考えて、この者は終了した。言いたいことが分かるだろうか。
自称奉仕者は無数にいる。本当に他人のためだけを思う者――思いやりを持っている者は稀である。ほとんどの思いやりは自分のためのものである。人間とは、純粋に他人のためを想うときのみ、力を引き出しうる存在である。つまりそのときだけ、奉仕は可能である。これすら分からず、つまり無限力から奉仕しておらぬがゆえ、「49歳までには奉仕の道を決めていないと今生では進歩できない」とか読書家は言うのである。こういう人を助けてやりたいが、本人がいわばその自身である山田太郎をまだ好きなため、それを演じたい欲求が勝っているがため、その耳に届くことはしばらくない。
本物と合一した者は、無限のアイディアの宝庫からいつでも必要なものを引き出すことができる。これが真のアレクサンドリア図書館である。この世の反映は燃え焼き尽くされたが、真の知恵の宝庫は永遠である。そして、小さな自分のためにこの図書館を利用しようとする者には、このアレクサンドリア図書館は存在しない。彼には見えないし、彼には知られない。なぜなら不純だからである。よって「ネタ」に困る。彼は自分のことしか考えていないからである。
いいですか、自分のことしか考えないのは、恐怖からですよ。と言ったらどう反応するだろうか。恐怖とは、偽物に生きている必然的な副産物であり、本物に生きれば即時にすべてが与えられる。そのための方法はない。つまり、方法を知っている者だけが本物に到れるのではなく、どの自我でも瞑想で己を学べば入れる。だから、外の自分を変えようとなぜするのか。なぜ強く立派な人になろうとするのか。霊的に適した人格になろうと努めるのか。これらの動機は常に不純である。自己中心的である。真実を言えば、本物が来た後に、本物の属性が偽物に浸透し始める。だからニサルガダッタ・マハラジが言ったように、「人格の善良さは副次的なもの」であり、ことの本質ではない。そんなことより、外の自分ではなく、内の自分に目を向けよというのが、あらゆる先人の教えではないのか。山田太郎の改善は、山田太郎の解釈であり、望みであり、行為ではないのか。山田太郎はこの世でどういう者でもいっこうにかまわない。関係ない。重要なのは、あなたがどういう人物であるかを重要視させる偽の教えにひっかからないことである。
正しい人格であろうと努めることは、霊的に初期段階では役に立つし、ほとんど不可欠である。悪人が悪事を続けながら霊的な王国へ至ることは不可能である。私が言うのは、このレベルの段階を過ぎ去り、すでにたくさん学び、実践的に瞑想しようとしている者に対してのものである。前者にはこの世の道徳で十分である。あなた方の場合には、道徳というものはすでに有害である。なぜならそれは人間や時代に依存した思想でしかないからである。真理は不変である。道徳は、文化や時代や人間によって様々である。これは考えれば誰でも分かるはずである。したがって、道徳は霊的には無価値どころか妨げる要素として理解せねばならない。道徳はこの世でのマナーのレベルであり、転生してきた場所や国柄や年代で円滑に生きるためのものでしかない。このレベルにまだ関わっているのか、と言わねばならない人に対して新たな教えを伝えている。それは、道徳などから自由なとき、本物が開示されるということである。山田太郎の人格にあまり関わらず、重要視せず、真に重要な本物だけを、あなたにおけるマインドのすべてを否定した沈黙のうちに見出さねばならない。それが瞑想である。
いい作品とは、自分のために作らなかったときにのみ生まれる。よってアーティストとは、真我のことである。奉仕者とは、神のことである。あなたではない。力とは、生命のことである。「一作目の純粋性をどうやったら取り戻せますか」と、そのアーティストは言った。もうその質問の時点で不純だということに気づかないといけない。何にしがみついているのか。二作目ができなくてかまわないではないか。あなたが純粋なら、無限に何作も勝手にできることを知るだろう。あなたは無限に奉仕者でありうるだろう。無能とは、自己中心性の結果である。自己中心とは、偽物しか知らない状態を指しており、決して非難する言葉ではない。偽物を信じる者たちよ、本物へ帰りなさいと我々は言う。初心者は恩寵が必要だと言うが、しばらく瞑想するならば、恩寵しか存在しないことを知るだろう。あなたを導く力と意志が本物として現前するだろう。この力に己とその生のすべてを明け渡すことが融合である。一体化である。ここに天の王国の扉が開かれる。
あなた方の状態は知っている。何も分からない状態である。知識で分かったつもりになっている人は無数にいるが、真にまともな弟子は、自分には何も分からないことを知っている。騒音だらけであり、静かにできず、霊的に無能であることに悩んでいる。この状態はしごく一時的である。山田太郎の最後の試練である。私が仮にその段階に戻されたならば次のようにする。日に一回か二回、可能なときに30分とか40分とか静かにし、静かであることが心地よいという感覚を定期的に味わう。これだけだ。あなた方の騒音は、この静けさという波動への愛着によって、やがて圧倒されるようになるだろう。強力な押し黙らせる力がいずれ訪れる。そして、専門的に言うアンターカラナが構築され、連結されたとき、出入りは自由になり、そのあなたの個人的な意志で入ったり出たりすることが可能になり、ならばできるだけ入っていたいと願うようになり、出ているときが耐え難い苦痛になり、こうして最終的には霊が物質に勝つ。
魂は下方へ劫期にわたって引きずり降ろされてきたが、上方を見上げるときが訪れる。そして意識は、生命そのものが普遍的自己であることを知る。山田太郎も、それ以前の無数の山田太郎も、もはや不要になる。こうして、実質的には抜け殻か通路でしかない山田太郎というセンターは、無限のアイディアと力の経路となり、彼はその世界ではアーティストになる。彼は奉仕するアーティストであり、いっさい自分のためには何もしない。全てである自己、唯一なる生命、そして生命である神の目的を、それまでの極度にミクロな視点からではなく、時間を超越した永遠から理解するようになる。すると、アーティストは恐れなくなるだろう。恐れるものがないことを知るだろう。このとき、なんとすべてが完全で美しいことかと気づき、喜びに泣かざるをえないだろう。実際に泣くかは別として、それは真に素晴らしいものである。これを知ってこそのアーティスト、表現者ではないのだろうか。真の芸術とは、純粋な通路の結果ではないのだろうか。ここをしっかりと理解して、偽物にしがみつくことなく、たとえあなたの生活が壊れようとも、つまり二作目が作れずアーティストとしては廃業になろうとも、本物さえ見い出せば、それだけが完成であり美であり真の目的であったことを知るだろう。したがって、個人は犠牲にしなさい。