正しく生きよとは、正しさで在れという意味である。媒体の行為は二次的なものであり、神との整列、私は神であるという境地、この一体性が臨在であり、この真我もしくは神我が正しさにして善である。だから正しく生きるとは、神で在るということであって、行為ではなく存在の状態である。このとき、すべての苦難、すべての問題、すべての謎や不可解は乗り越えられ、完全性しかありえぬこと、本物は最初から我であり、真我はそもそも正しさであり善であることが理解されるだろう。
初学者は、外的媒体における行為や人格の正しさが「正しさ」であると錯覚する。自分というものが、まだ肉体や精神を指しているため、その偽の私を最初に持ってきた上で、あれやこれを考え行う。この場合、最初から正しさを逸脱しているのである。これは初期段階では避けられないミスであり、また必要なミスであるが、ミスであることには違いはない。正しさや善は、媒体に関係なく存在する背後の実在であり、神の意志であり、媒体の自由意志とは無関係である。
そもそも、自由意志の感覚とは何なのか。想像力の産物でしかない。事実は、諸体のフォースに条件づけられているだけである。メンタル体を通過したフォースは想念であり、アストラル体を通過したフォースは情緒であり、これらが肉体の行為を決定づける。これら諸体のフォース、主に想念や情緒から切り離され、自由であり、諸体が魂に整列状態にあるとき、真我と神我は知られる。唯一なる意志は知られる。これのみが真に純粋な善であり正しさである。それは言い換えれば神自体である。
見習いの弟子と弟子の違いは、前者が自我を自分とまだみなすのに対して、後者は自身が魂であることを知っており、それが行為や人格とは無関係な、いわば下に依存せずに独立した存在であることを知っている点にある。このとき弟子は、はじめて極楽の意味を知るだろう。それまで自分と思い、その自分に責任を感じて生きてきたが、真の自己が自我とは無関係に存在することを知って、自身が自我ではなく、肉体でも精神でもなく、解放された自由な一者であることを知るとき、媒体がまだ世界で活動していようがいまいが、無関係にその意識が、「そこ」が、すでに極楽浄土であることを理解せざるをえないだろう。
自我や個人として生きる者は、その自分が行為の責任者であるという強迫観念と共に生きている。ゆえに、永久に人生は地獄である。瞑想をするならば、このような錯覚からは自由になり、人生は神生になり、神が媒体を通して生きることになる。そのとき、外の媒体が何者であったにせよ、無関係に至福の道が開かれる。この至福が途切れることはありえない。このような神聖意識は、すべての錯覚からもはや孤立しており、ただ神にのみ整っている。彼は偽物と本物を識別したのである。
ちょうど私の話がほとんどの人間に全く響くことがないように、神の働きかけもまた、ほとんどの自称弟子には響かず、知覚されたり、受け入れ可能になったりはしない。つまり、このような話は別の人の話であろうと結論づける。そのようなわけがないではないか。私は断言できるが、聞く耳を持つ者においてのみ、この種の話は必ず事実になる。例えば、ラマナ・マハルシの本を読んで、十年後にマハルシのようになると思う者はほとんどいないだろう。普通は、聖者とは特別な者だと考えることで逃避する。しかし瞑想し、正邪の識別ができるようになるならば、彼は善と正しさに留まることが好きになり、聖者になる。二つのものがこの世では対立している。キリスト教哲学では霊と物質でそれはあらわされる。もしくは神と悪魔である。瞑想とは、人間の意識に魂を自覚させ、魂で在ることを教え、そうすることで、悪と呼ばれるものに条件づけられた状態から、善つまり神と呼ばれる真の自己(霊)へと回帰させる偉大な贈り物である。そして、この神聖な贈り物に生きることが可能な人生――瞑想に生きることができる人生は、あまりにも幸運である。最初は何も起きないだろう。何も分からないだろう。それでかまわないと思い、自我が求めるものには無関心に、つまり無欲にただ瞑想するならば、神は来られる。その、来られる直前の闇に惑わされている期間にある意識たちが、私の文章を熱心に読んでいると思って書いている。
重要なことを再び言う。真我だけが目標である。その時々の人間に生きることがあなた方の目標ではない。まだ若い魂たちはそうではない。スポーツ選手として注目を浴びる自分に感動することで学んでいる者もいれば、無名で無能で無意味な人物としか思えない自分として悩み生きることで学んでいる者もいる。あらゆる者がいる。我々はかつてあらゆる者であった。全く必要なことではないが、瞑想中に前の生涯の記憶が回復する場合があるが、たとえそれが偉人であろうと、あるいは幸せそうな人であろうと、真我を見出すことに失敗したならば、すべては本質的には目標に到達するための途上の生でしかなく、本質を本気で考えなかった恵まれない人生である。それらはいずれも神生ではなかった。真我を見出したとき、輪廻の旅は終わるだろう。そのような繰り返しは必要ではなくなる。新たなカルマを無用に生み出すことなく、神に専念する神生になるだろう。だから、このような文章を読んでいるのならば、見出す前のあの悲惨としかいいようのない時期にあるのかもしれないが、瞑想を通し、正しさに己を固定し道を踏み外さないかぎり、抜け出るのは間近である。その後は、あなたは神に生きるようになるゆえ、人生は神が導くことになる。二次的なことだが、かつて自分であると思っていた自分もまた幸福になるだろう。外的な素材を必要とせずに、あなたが行くところ、すべてに福音が響きわたることになるだろう。あなたは生きる福音でしかなくなり、媒体は神と善しか表現せず、信じられぬばかりに満たされ、神を讃えるだろう。神である真我に喜ぶだろう。
これは、放棄の人生を歩んだ者だけが享受しうる未来である。自分のことはどうでもよく、他人のためだけに、つまり「善を為さんという意志」だけに生きた者だけが導かれうる次の意識である。親戚が、生まれた子供に善という名前をつけた。この男は霊的な知識を全く持たない者だが、良い名前をつけたと思う。しかし問題は、善が何であるかを、この世のすべての兄弟が知ることである。善とは善行ではない。行為ではない。源を見出し、真に善であるもの、すなわち神である真我を見出すことが人生の唯一の目的であり、最高善であることを決して忘れてはならない。