あらゆる形の困難に対する応用

「感謝」というタイトルでメールが来ていたが、逆にこちらが感謝すべき内容だった。返信無用とのことだったが、皆にとって有益であろう箇所を、一部抜粋させていただきたい。

内心驚いたことは「魂の視線を向けると破壊される」と記事にありましたが、その場でやってみると本当に即座に己がうちにあった負の情緒が破壊されたことです。その後、あらゆるアストラルに対しても応用可能であることを経験しました。

日々の瞑想の積み重ねでここまで来られたことを、我が事以上に嬉しく思うものである。ここに書いてあることが、アストラル体の統御方法なのである。しばらくすると、意識的にアストラル・フォースに働きかけるという作業は不要になり、統御過程そのものが識閾下に落ちる。アストラル界は自分には存在していないと言えるようになる。こうして初めて、第二段階のイニシエート意識から、メンタル体の統御に向かうことが可能になる。これも実際は、「応用」の範囲内にあるのだが、非常に分かり辛い。なぜならアストラル体は、まだ自我意識を保ったまま統御することが可能であったが、メンタル体の統御とは、そのマインド自体、自我の源自体へ向き直り、それによって対象へエネルギーを照射し続ける集中すなわち破壊過程が必要になるゆえ、発想の転換を強いられ、それまで「私」であったもの――自我の死を求められるからである。我々は完全に魂にならなければならない。

とはいえ、今回強調したいのは、「あらゆるアストラルに対しても応用可能」であったように、アストラル以外のあらゆるフォースに対しても応用可能であるという点である。ここでジュワル・クールの文章を引用する。

病気は、望まれるように、つまり計画通りに機能していないエネルギーであると言うならば、あなたは誤解するであろうか。流入するエネルギーがフォースと関係づけられることで、健康、強い適切な形態、活発な活動を生み出す。しかし、流入する同じエネルギーが同じフォースと関係づけられることで、摩擦点が生まれ、病んだ部分、苦痛、苦悩を生じさせ、ときには死を引き起こすことさえある。エネルギーとフォースが本質的に聖なる性質であることは同じであるが、確立される関係が問題を生じさせるのである。この文章を研究することで、このような定義があらゆる形の困難に応用でき、そして(善か悪かの)状況を究極的に作り出すのが関係のあり方であることが分かるであろう。

アリス・ベイリー「秘教治療下」p.246

この文章は、いつものように美しいが、意味が分からないように工夫されている。彼の著作全体に言えることだが、分かる者しか読めないという、いわばオカルト的な書き方をすることで、未発達な者の安全性を担保したり、小さな個人のために技術を悪用しようとする愚か者を自動的にはじくようになっている。

冒頭に引用した方が自身のアストラル界で習得したのは前者である。それまでは後者の状態を無意識的に生きていた。この世すなわち三界のすべてのものの背後に、エネルギーとフォースが存在している。人間で言えば、霊とパーソナリティーのようなものである。霊は、肉体を含めた三重の諸体に一時的に閉じ込められており、物質との関わり合いで生じた魂は、各々の物質に条件づけられたフォースに、長い長いあいだ条件づけられてきた。しかし瞑想を通して、真の自己である背後の魂に気づかれた。自身の背後に魂が存在することを確認された。ついにパーソナリティーが魂に気づいたのである。これは、気の遠くなるような転生過程における一つのクライマックスである。

第一イニシエーションのとき、そしてその他のすべてのイニシエーションのときにはより一層、エネルギーがフォースとの大きな衝突へともたらされる。魂のエネルギーがエーテル体へと流れ込み、すべてのセンターが「戦闘領域」になり、一つのセンターが他のセンターよりも強調される。戦いの性質はもはや「フォース同士」ではなく、今やエネルギーとフォースの間のものになる。イニシエーションのために試練を激しくするのはこれであり、第一イニシエーションと第二イニシエーションをすでに受けた、もしくは受ける準備をしている人々に非常に多くの肉体的な病気を引き起こすのはこれである。それが聖者の病の原因になるものである。

秘教治療下 p.254

色のついた部分は、先ほどの前者と後者の意味を別の文章で説明したものである。我々は、読者の方が見出されたように、あるフォースへ魂のエネルギーを向けることで、「即座に破壊」されることを体験することが可能である。アストラル・フォースに関して言えば、例えば苦悩が感じられても、それを見た瞬間に存在していないことを理解するようになる。つまり苦悩することはできなくなるのである。

全ての弟子たちは、生来備わっている所有権により自分のものであるフォースとエネルギーを活用することを学ばなければならない。これらエネルギーとフォースを、平均的な人々が理解した上で活用することは稀でしかない。彼らは通常、これらのパワーの犠牲者であって使用者ではない。自分が随意に引き寄せることのできるエネルギーがどれだけ途方もないものであるかを認識している人はほとんどいない

新時代の弟子道3 p.61

「理解した上で」アストラル界で応用できたならば、他の界層のフォースに対してもできるはずである。すべてのフォースを統御することはまだ無理である。激しい痛みというフォースにはまだ無力であるし、重病で憔悴しエネルギーが入ってこない状態になったときにはなおさら無力である。しかし、それ以外のほとんどのフォースは魂の統御下に落ち、我々は三界とは関係がないと感じるようになり、それまで自分であったものとも切り離される。なぜなら、そのとき我々は純粋に魂だからである。

以上の話の要点は、この世の様々なフォースに対しては、魂のエネルギーで無力化することが可能だというものである。このようにして人は愛として「無敵」になる。だから、日常生活でも常に、「負の情緒」だけでなく、快を伴わせる情緒に対しても、このエネルギーの適用は続けられねばならず、不快な情緒だけは統御して、快楽だけは享受するということがないようにし、どちらにも揺れ動くことなく、その中央の道、ちょうど死人の心電図が一定に横線であるように、まったく何にも影響を受けず不動であるという意識を魂として確立しなければならない。これこそが、隠された至福の道であることを皆に知ってもらいたい。これを達成したとき、ハートの深いところに真我を知るであろう。「蓮華の中の宝珠」の意味を知るだろう。このお方が父であり、命であり、私であり、すべてである。

まさか、自身というものがフォースの集合体であり、それらのフォースをなべて統御しうる偉大なエネルギーを、正しい生き方と正しい瞑想の積み重ねで入手することができ、外側という結果の世界でどうこうするのではなく、内側で、すなわち原因の世界で、フォースに対するエネルギーの適用というかたちで即時に解決しうるなどということは、思いもよらないことである。このような学びに招き入れられなかったならば、一生分からなかったであろうし、あといくつの生涯、無知のまま「犠牲者」として苦悩の生を歩まねばならなかったかと思うと、これまでの人生がいかに苦しいものであったとしても、感謝しかなくなるであろう。魂と深く整列したとき、我々は天上の喜びを知る。そして初めて神の愛を知る。聖者ですら涙を流さずにはいられないこの大愛へ、皆が帰ってきてもらいたい。そのための手段は与えられている。それはとりもなおさず瞑想である。

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