女三人寄れば姦しいと言うが、昨日もまた、だれそれの娘が引きこもりであの家も大変だとか、だれそれは車を新型に変えたがうちはまだ旧型で恥ずかしいだとか、だれそれが美しく見えるのは整形手術に余念がないからだとか、本質的に粗悪な精神が作り出す虚構の嫉妬や怒りや批判で色づけられた目眩のするような会話が万華鏡のように展開するのを、下界から遥か高みに飛翔してもなお、飛行機の席の後ろから否応なしに聞かされたのであるが、道を志すような者が決してこの種の会話に加わってはならないのは当然として、すべてが美しいことが分からなかったり、すべての事象の背後に神が見えなかったり、すべてと私がひとつのものであるという境地へ引き上げられていないということは、世界を眺める自身の窓――マインドが邪悪な色に染まっており、自身が生み出した絶え間のない呪詛にさらされて、魂と心身が疲弊し病んでいるのだということを認識し、万物の生命との一体化を阻んでいる自身の不穏なマインドに火急の手当てと癒やしが必要であることを切実に理解しなければならない。
引きこもりとは、万物と一体化できない分離した自我のことを言うのであって、それはとりもなおさず我々のことである。我々が自我に引きこもり、ゆえに全一体の境地、パウロが第三の天と呼んだ言語を絶する神の美が開示されることもなく、自身が病んでいるのと等しく世界も病んで見えるのである。この霊的引きこもりは、人類が抱える最大の苦難であり、言ってみれば、我々の最も可愛そうなところなのである。
わたしは誇らざるを得ないので、無益ではあろうが、主のまぼろしと啓示とについて語ろう。わたしはキリストにあるひとりの人を知っている。この人は十四年前に第三の天にまで引き上げられた――それが、からだのままであったか、わたしは知らない。からだを離れてであったか、それも知らない。神がご存じである。楽園に引き上げられ、そして口に言い表わせない、人間が語ってはならない言葉を聞いたのを、わたしは知っている。
コリント人への第二の手紙 12章
なぜ、我々は第三の天(第三イニシエーション)に引き上げられず、また楽園すなわち万物の生命にほかならない神の美そのものが分からないのだろうか。心が内向きだからである。小さな自分にのみ心が向いているからである。このような心の傾向は自我による巧妙な罠であり、この罠にかかったが最後、抜け出すのは至難である。私とは自我のことではないと頭では理解していても、それが現実にならないのは、内に向いた心を外に向け直すという勇壮なテクニックを知らないからである。自我に向かう閉じた心を開き、自身への思いやりをそのまま人類への思いやりに、自身への世話をそのまま世界の兄弟への支援に、自身に関する興味をそのまま同胞たちへの興味に、といった形で新しく向け直すことの偉大さを知らないからである。これは決意の問題であって、難易度の問題ではないことを我々は薄々知っている。自身への執着を全解除することが最終奥義なのである。自身への引きこもりから万物への愛に解放されることだけが楽園意識なのである。
このとき、「わたしは誇らざるを得ない」のである。これは自慢という意味ではなく、賛美せざるを得ないというニュアンスである。暗がりにいる者が光を求めるように、自我にいる者が思い切って己を捨て、己への関心をのべつ諦めて、自身の力すなわち使用できるエネルギー(フォース)をすべて人類や万物といった兄弟姉妹へ向け直すならば、我々は即時に、「キリストにあるひとりの人」を知ることになるだろう。神の中に生き、動き、存在する唯一なる神である我である。「口に言い表わせない」これほどの賛美歌がありうるだろうか。「人間が語ってはならない言葉」つまり自我では決して語ることのできないこれほどの福音がありうるだろうか。
魂の波動と接触できるようになった後、やがて弟子は「覚者の波動」と呼ばれるものと接触できるようになる。例えば、ジュワル・クールがまだ肉体を纏ったままチベットのラマ僧院を率いているからといって、彼の肉体的側面に会いに行こうと試みた者はたくさんいる。これはほとんど迷惑である。自身の覚者――すべての受け入れられた弟子には彼を担当する覚者がおり、すべてのそれ以下の弟子には彼を担当するイニシエートか古参の弟子が存在するが、この話を必ずしもこの世的に理解しようとする必要は全くない。覚者つまり第五段階以上のイニシエートが働いているのは物質界でもアストラル界でも低位メンタル界でもなく、高位メンタル界であると言われており、そこでのみ彼らと出会うことができるという意味が理解されているであろうか。高位メンタル界には我々自身である魂が存在しており、我々が魂のエネルギーと呼ぶものは、この界層――メンタル界の第三亜界かそれ以上――から発せられたものである。もし我々が、自身に流れ降るエネルギーや活用できるフォースを自身のためではなく、自身以外の存在のために向け直すというアイディアに感応できるのであれば、それが神の意志であることを知るであろうし、そのとき、覚者と接触することが初めて可能になるであろう。
ちなみに、瞑想とは第三の天(第三イニシエーション)に引き上げられるまでは個人瞑想つまり個人の霊的完成を目指すものであるが、その後の瞑想は神の意志と目的と計画のためだけに捧げられるものである。このことを、ある段階で弟子は理解するようになる。我々とは、我々のためのものではなく、唯一なる神のためのものであることを理解するようになる。ちょうど私が以前、自身の霊的完成のためだけに行う瞑想に行き詰まったとき、なぜ行き詰まっているのかを見たならば、その原因が自身の内向きな態度それ自体にあることを理解したがゆえ、瞑想というものは、本来は私のためではなく、すべての私のためであることを悟って、世界平和のために瞑想するようになったとき、長年途切れていた覚者との接触の断絶が回復し、世界平和のための瞑想に力を貸すべく我が瞑想に覚者が参加してくれたこと、すなわち私をオーバーシャドーして、「あなたが私と会えなかった理由が分かりましたか」と言われたことを思い出した。私は内向きの波動で瞑想しており、自分のために浅ましい瞑想をしており、すべてが我であるということを理解せずに瞑想しており、ゆえに外に開かれた瞑想ではなかったがゆえに、「覚者」と波長が一致していなかっただけであったことを知り、我であろうが覚者であろうが偏在であり、また臨在であることを理解し、我々の誰もが我々自身のためのものではなく、神のための良き管であるということ、我々の目的は神の目的の部分でしかなかったという壮大な栄光を垣間見て平伏し、このような真の学びが瞑想から得られたことを深く感謝したのである。
以上は、前回の記事「愛こそが解放の鍵」にて書き足りていなかった部分を補うものである。瞑想で行き詰まっている方は、以上について実際に真摯に考え、考えたことを実践にて実験し、ことの事実を実証し、解放を味わっていただきたいと願うものである。予想以上にあまりに簡単であることを必ず発見すると私は思っている。もし内向きから外向きに転換しようと実験したにもかかわらず、何の変化も生じないままというならば、再びその現状の感覚を眺めるべきである。なにが「しこり」であるのかを見るべきである。なんであれ、答えはすぐ目の前にある。見ようとするのかしないのか、これだけであることを知るだろう。したがって、我という鏡の汚れは無知のことなのである。