病気とカルマ

また身近な者が風邪をひいて苦しいと言っている。治せる力が内在することをまだ知らないし、治し方もまだ分からなくて苦しんでいるのである。私は、簡単に風邪などが治ってほしくはない。つまり、なぜ風邪という現象が生じたのか、何が原因であり何ゆえの風邪であるのかを突き止め、原因と結果を結びつける能力を発達させ、自らの非霊的な弱点や態度が何であるのかを学んでほしいのである。でなければ、繰り返すだけである。

その方を私が見る(診る)ならば、ここしばらく、ずっとネガティブな思考に生きており、自らを邪悪な想念で限定し自縛し、活き活きとした生命力に逆行し、弱め、至るところに渦巻いている同種のフォースを引き寄せ、つまり感染し、根付いてしまい、人間を正常に生かす本来の良いエネルギーよりも、その種の悪いフォースの方が完全にエーテル体内で優勢になり、いま症状としての現象に圧倒されている最中である。これは自縛による自爆であり、この自縛とは、常に自己中心という無知から生じる。自分中心に物事を考え、好き勝手に他人を批判したり、悪意を持ったり、あるいは悪意を実行に移したり、思考・言葉・行為という三つの表現において悪に条件づけられた結果、戦いが熾烈なものとなり、何らかの形で最終的には自身を破壊するのである。

この方は、滅多に風邪を引いたことがないことを若い頃によく誇っていたものだが、最近では年に何回も風邪を引くようである。逆に、私が破壊的に生きていたとき、誰かが風邪を引けば確実に移り、免疫力はないも同然かとばかりに年がら年中病気になっていたが、瞑想に生きるようになってから、風邪を引かないではないか。たとえ感染しても、風邪程度ならすぐに治せる力を扱えるであろうし、今ではその治癒力が強烈にデフォルトで顕現し続けているがゆえ、どうやっても無病ではないだろうか。それをその方は知っているはずである。しかし、たまたまだと思っている。

たまたま風邪を引くのだろうか。たまたま無病なのだろうか。物事や現象にたまたまがあるだろうか。もっと真剣に考えてもらいたい。原因のない結果というものはない。だから、良き原因にのみ生きてほしいのである。自我ではなくて。

病気を制御できるのは、高位(魂)のエネルギーと高位のリズムを低位のフォースに課すことによってである。したがって病気とは、これらの高位のエネルギーとリズムを取り入れることに失敗したことによって肉体に現れる結果であり、それはまた進化段階によって決まるものである。

アリス・ベイリー「秘教治療上」p.123

すべての病気は調和の欠如に原因がある――形態様相と生命の間に存在する不調和である。…魂と形態、生命とその表現、主観的なリアリティーと客観的なリアリティー、これらの間に整列の欠如がある場合に、病気は現れる。霊と物質が互いに支障なく関係づけられていないのである。

秘教治療上 p.29

もし我々が分離した個人であるならば、誰かが憎い、誰かが許せない、誰かが妬ましい――このように絶えず他人が存在し他人を裁くことになるだろう。またそうすることが正しいと思わせる根拠をやたらと見つけ出すだろう。悪意の正当化である。しかしながら、たとえ正当化したい根拠があったとしても、絶対に他人を裁かない生き方をしようという決意は我々にないのだろうか。すべての見習いの弟子が最初に学ぶのは、無害である必要性と、無害であることの経験的な意味と意義、それゆえの無害への鉄の意志である。有害性に一つもプラスはなく、マイナスだらけであることは平均的な人間でも分かることだが、見習いの弟子の目標は、アストラル体を統御する魂を自らに引き入れていないため、条件づけられるしかないことを確認することである。にしても、それを言い訳にすることなく、すべての学ぶ者は、絶対に有害に生きたくはないと思うはずである。たとえ無知な者に攻撃されようが、馬鹿にされようが、意地悪をされようが、愛そのものとして我々は生きたいのである。そのためには、愛の源に入らねばならず、そして愛の主とは魂のことである。

この十何年かでなぜ私とその方との間で差が開いたのか。病気がちな者と健康な者とが入れ替わったのか。私よりその方のほうが、世の中では圧倒的に愛され、好かれ、大事にされ、素晴らしい人間、良い人間だと思われていると思うのである。人前で作る人格と、素の人格を使い分けてはならない。それは臆病者のすることであり、他人にも自身にも有害である。なぜ他人に嫌われるのが怖く、他人に好かれるために自分を偽るのか。それよりも、偽らねばならない自身の有害な部分、隠さねば嫌われてしまう自身の有害な性質を見出し、それに条件づけられない自分、影響を受けない自分でなければ、何の平和もありえないことを知り、徹底して汚れや垢は洗い落とされねばならないのである。それを可能にするのが瞑想ではないのか。なぜ差がついたのかを言えば、私は瞑想に明け暮れたが、その方は瞑想しなかったからである。これは批判ではない。なぜなら、その方の魂は、まだ瞑想より他のことで学ばせたかったことを私は知っているからである。しかし事実だけを述べるならば、瞑想を長年続けた者と、何もせずぼーっと生きていた者に差が出るのは当たり前である。

これを考えると、瞑想を人生で許されている者の、なんと幸いであることか。世の中では不幸で、瞑想しない者が味わっている楽しみも幸福もなく、個人的に惨めであるかもしれないが、神さえ見出すならばすべてが美しく素晴らしく喜ばしく至福になるのだから、これ以上の幸運なカルマはないと絶えず私は思う。唯一なる目的を見失った人生は、たとえこの世で栄華を極めようが、本質的には無価値で失敗した人生である。ただ再び死んだ後の世界に戻り、失敗したことを認識するだけである。この世に生きている内にそこに気づける人生であってほしい。なぜ我々は死ぬのか。なぜ死ぬのに生きねばならぬのか。考えてもらいたいものである。しかし、考える力すら授かっていないのが人類のほとんどだということが、非常に残念である。個人の目的のために我々は生かされているのではない。我々の肉体を生かしている生命自体、そしてその反映である我々の神の目的が本当の目的である。ならば、神を、すなわち真我を知らずして、神の目的を知ることも、神の計画を垣間見ることも、またそれを遂行する神の意志を見つけ出すことも不可能なのである。個人の意志から神の意志へ。分離した個我から唯一なる真我へ。このことを学ぶならば、本来は病気というものはないのである。なぜならすべては一体だからである。一体同士で傷つけ合うことは不可能だからである。「一体同士」という概念がそもそも意味不明で、あり得ないことではなかろうか。

第二光線の弟子は、他人から嫌われることを恐れる。だから素の自分を隠匿し、人前では人受けする自分を振る舞い、嫌われなかったこと、好かれたこと、褒められたことを喜ぶ。ならばその反対が起きたらどうなのか。人に受け入れられなかったらどうなのか。許せないという気持ちになる。嫌いな人という対象が生まれる。嫌な気分に苛まれる。――分離したことが諸悪の根源である。愛されたいとか嫌われたくないとかいうグラマーは、アストラル界のイリュージョンであり、その根源は、分離というメンタル界のイリュージョンである。マインドを超え、透過し、背後の真の実体に吸収されたとき、恐れは去るだろう。分離は去るだろう。ネガティブは去るだろう。このうえなくポジティブになるだろう。強烈な愛に一つのものとして満たされるだろう。これだけが至福の道であり、悪が存在しない調和の道である。

「道を辿る前に道そのものにならなければならない」というオカルトの格言のなんと美しきことか。マインドを超え、分離なき魂へと到達し、パウロの言う第三の天にて楽園を知るとき、癒やすものは常に愛である。このことが分からず、分離の源から錯覚を受け、つまりマインドを魂で超えられないとき、魂とマインドのいわばベクトルに齟齬が生じ、互いが反対方向を目指しており、これゆえに病気という現象があることを我々は知る。

カルマの法則の目的は、霊の対極である物質を霊の要求と厳密に一致させ、物質と形態が霊の性質を完全に表現できるようにすることである。

アリス・ベイリー「魂の光」p.205

他人に怒りを持ち続けたり、すぐ怒る自分の原因を突き止めようとしなかったり、霊的に不誠実であるならば、いくら治療家が治療しても、その者はまた病気になる。目指している方向、突き進んでいる方向が修正されていないからである。だから、簡単には治ってほしくないと言っているのである。それは、その者の魂が言っていることでもある。学ぶまで、本質的には治癒というものはないのである。しかしながら、我々には瞑想という手段が与えられており、学びたい者には教えを与える教師が内に備わっている。

最近、イングランドのプレミアリーグがテレビに映し出されているとき、ちょうどゴールした瞬間を見たが、フィニッシュした直後にその者が瞑想のポーズをやっているのである。ここまで世の中では履き違えられているのかという気持ちになると同時に、こういう時期を経て瞑想は世の中で正当な位置を占め、人類に浸透してゆくであろうという喜ばしいものが同居した。しばらく前なら、サッカー選手すなわち肉体とアストラル体を表現するための媒体たちが、瞑想のポーズを決めることはなかったと思うのである。そんなことをしたら馬鹿にされた時代もつい最近まであったと思うのである。今では瞑想のポーズがかっこいいとまで思われているのかどうなのか、選手たちがやっている。今の世の中の瞑想の概念は一般的に落ちぶれてはいるが、瞑想とは何か、この本質的な意味を人類が知るようになり、そこにどのような壮大な意義があるのかを宇宙的に知り、身体の一部がごとくサッカーボールと一体化するのもいいが、このような現象の世界の背後の一者とのみ、融合してもらいたいと願うものである。そうすれば病気はなくなる。争いも戦争もなくなる。貧富の差もなくなる。誰もが互いに助け合い、愛し合い、慈しみ合う時代になる。このような調和を、まずは己で達成すべく、今日も我々は一人瞑想に明け暮れるものである。

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