災いの原因は常に同一

病気がどういうものなのか、その苦しみを分からずに語っているのではないかという問いかけを受けたとき、次のような疑問が浮かんだ。私が病気になりえないと言うのは、真我という永遠なる無病と一体であり、その本物のみが我であることを知るからだが、果たして、肉体をあえて病気にしてその苦しみを味わうことが私に可能であろうかと。病気の原理が分かるということは、あえて病気を受け入れる方法も理解していることを意味する。私はある人を治療しながら、その病いつまりカルマを可能であれば引き受けたいと思った。そして、肉体が病気に冒されるという体験つまり機会を受け入れたいと願った。そして、私は肉体的に病気になることについに成功した。

次の懸念は、すぐに自動的に癒えてしまうことである。ゆえに、肉体的な症状が出ているときを逃さず、苦しみや、病気による痛みや、だるいという感覚などを限られた時間で即座に見ねばならなかった。まず、だるいという、憔悴的な状態自体がすでに答えであることに気がつき、呆気なく探求は終了した。このように、常に直観は本質を直接的に示すため、瞬時に理解し瞬時に錯覚は溶かされるのである。病気は、基本的にセンターの不調和の問題なのである。

すべての病気は――事故、伝染病を引き起こす傷によるものを除いて――結局のところ、センターの状態に起因する。つまり、エネルギーの流れが乱れていたり、エネルギーが過剰に活動し不適切に方向づけられたり、エネルギーが全く欠乏していたり、エネルギーが活用されず、対応する高位のエネルギー・センターへと変性されずに残っていたりすることで起こる。

アリス・ベイリー「秘教治療上」p.291

憔悴的なとき、エネルギーが欠乏している状態であることは誰もが認めることである。次に、高位のエネルギーが流入するフォース・センター(それはヘッド・センターだけではない)に、いわば制限をかける働きをする不穏なフォースの集合体が存在することを見た。これを分かりやすく病魔と呼ぶなら、エネルギーの適切な流れを、エネルギーが出たり入ったりするその交差点のような場所・センターにて、邪魔している存在がいるのである。昔の私であれば、そのような病魔自体に直接働きかけるという手法を取ったであろう。つまり、二元的な手法である。今は、病魔ですら私と一体であることを理解するがゆえ、たちまち一体意識に入るということ、対象と一体化すること、これを通じて即時に、たとえ肉体が病気であろうと、無関係に至福として不調和が調和へと、いわば無意識のうちに解消されるのである。こうして自動的に、センターの問題は解決されることになり、ゆえに、瞑想意識から出て再び肉体意識で病気を見たとき、もう存在していないのである。

このような話は、読者の方々が実生活の中で自身に応用できてはじめて意味をなす。私の話や私の状態をただ話しているなら完全に無意味である。しかし、この話の中にあるものは、あらゆる困難に応用できるものを包含している。まず、魂は真の治療家である。次に、我々は肉体でも精神でもなく、その背後の魂である。自身が魂であることを知っている意識――「I AM THAT」の意識では、自己は自己自身に、魂自身に集中しているだけであり、そこには、肉体の病気を治したいといういかなる願望も存在していない。病気の苦しみを理解していないのではないかと言われる。そのような苦しみは、本質的には錯覚なのである。ニサルガダッタ・マハラジは喉の癌だったと思うが、それを「耐え難い痛み」だと言っていた。これは、肉体に注目を向けたときにそれを知覚するのであり、魂として魂自体に集中している魂意識であるならば、たとえ痛みを認識できたとしても愛の対象でしかなく、より深い集中状態すなわち観照レベルにおいては知覚されようがなく、存在していないもの、実在ではないものにすぎない。

我々の生活上のあらゆる困難もまた、「結局のところ、センターの状態に起因する」。しかし、様々な専門用語を使うことは今は避けたい。病気という言葉が示しているように、気(エネルギー)の問題であり、無知による気の不適切な、方向づけられることのない無法状態が原因であるにすぎない。我々が瞑想で魂と融合するならば、その領域が完全に法則に一致していることを理解する。我々という無知や無法を取り締まるのは魂である。自我にとっての真我である。知るべきことはこれだけである。魂と融合することだけである。そのようにして錯覚から自由になるだけである。

もし次に病気の兆候を感じるようなことがあれば、即座に瞑想に向かうことを忘れないでもらいたい。睡眠の途中で苦しみで目覚めたときであろうが、即座に起きて瞑想せねばならない。仕事中であろうが、可能な限りすぐ瞑想できるように環境を整えるべきである。病気とは何なのかを見るチャンスを逃してはならない。医者などは、客観的な症状や病態が認められるとき、それを病気と言う。私は、「気」の病いについて言っている。結果ではなく原因の世界について話している。「つまり、エネルギーの流れが乱れていたり、エネルギーが過剰に活動し不適切に方向づけられたり、エネルギーが全く欠乏していたり、エネルギーが活用されず、対応する高位のエネルギー・センターへと変性されずに残っていたりする」状態のことである。それはエネルギー的な迷子状態であり、子が父からはぐれると同時に、父が子を見失った状態を意味する。父が監督していれば迷子は起きなかった。父が無知であるとき、自分の遊びに夢中になったりするがゆえ、無防備になり、別のものへの熱中が生じ、子の監督ができぬようになり、子は神隠しに遭うのである。父と子は一体であるがゆえに、ともに神隠しつまり神が隠され神が分からぬようになった盲目で錯覚的な意識において、迷うのである。

医者と同じ過ちを犯してはならない。客観的現象ばかり扱っていても限界がある。それを否定するわけではないが、本質的ではないと言ってるだけである。昔から672夜には何人も医者の読者の方がいるし、私には彼らの職業を侮辱するような意図はない。結果の世界の背後の原因の世界で働けるようになって初めて神の意志を知り、意志ゆえに我は医師であると言えるようになるものである。なぜなら意志は、完全に法則通りに働いており、病気は、この霊的法則から逸れたときにだけ生じるからである。医師は意志でなければ、適切に患者や自身を導くことは不可能である。自分の意志や、学校や現場で習った知識が医学ではなく、真に癒やす力と一体化することが医師を志す者の真の責務である。これは、医師という職業を志していない人も同じことであり、我々が形態を纏ってわざわざこのような世界に顕現しているのは、結局のところ癒やし助けるためであるゆえ、誰もがいつかは、すべての災いや困難の原因が同じものに由来することを突き止めねばならないのである。それは神との不一致であり、霊と物質との不一致である。

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