自分を特定の個人だと思っているということは、自分が個人を動かしている主であり、個人に関する決定や実行といったコントロール権、あるいは自身が下したとみなしているそのような自由意志に責任がある主であるという感覚を持っており、このような無知の態度が、地上に地獄を作り出している原因であることに我々は気づく必要がある。簡単に言うと、誰が行為者なのかという点に大きな錯覚がある。

肉体を動かしているのは、肉体以外の体を通ったエネルギーである。人間の場合、アストラル体とメンタル体を通ったエネルギーつまりフォースに動かされているだけである。この二つの体を魂が統御してしまったイニシエートであれ、彼を動かしているのはより高位のフォースである。特定の行為者というものは、この世には全く存在していないことをいつか知るだろう。そのとき、自分と感じ思ってきたものから切り離され、関係がなくなり、すべてはただ観照されるのみになる。この境地は、自我意識からすれば、あらゆる肩の荷が下りた意識であり、初めて自由を知るときでもある。

よって、我々が見ている世界は、基本的には神の自作自演である。世界での経験が不必要になるまでは、その世界で物事や事象の意味や意義を人間は学ぶことが進化であるが、「自分」という枠を超えたとき、我々はそれまでの一切の焦点から撤退し、ただ存在しているという自然の状態へ還る。それは明らかにカルマの指が触れられない領域であり、その領域の意識存在は、我々の知る世界から完全に切り離されているため、カルマを生み出すということが不可能になる。

瞑想の過程は、正しく理解され実行されたとき、霊的人間の意識を三界のすべての形態から撤退させ、すべての感覚知覚から抽出する。このようにして純粋な瞑想の瞬間に、結果を生み出すカルマの様相から自由になる。一時的に彼は抽出され、完全に集中し三界とは何の関係も持たなくなった彼の思考は、外に向かう波動を全く発せず、どのような形態にも関与せず、どのような質料にも影響を与えなくなる。この集中した瞑想が習慣になり、生活において平常の日常的な態度になったとき、人はカルマの法則から解放される。

アリス・ベイリー「魂の光」p.382

カルマは、結果の世界、形態と質料の世界に関するものであり、通常の人間は肉体などの形態と同一化しているために分離した個人意識という無知に覆われており、カルマに従って働いている良いフォースや悪いフォースの無意識的な奴隷状態にあり、それはいわば、運命の奴隷である。一方で解放や解脱というものは、形態と運命と自己感覚からの自由を意味し、それまでのパーソナリティー的な意味での自分というものは消滅する。自我の終焉である。これは完全なサットヴァ意識であり、ラジャスとタマスは完全に除去されて、透明で清澄な生命の流れだけが顕現するようになる。これは、魂がモナドと接触することで初めて可能になる意識である。例えばドストエフスキーは、完全に善良な人間を描こうとしたとき、白痴を主人公にするしか方法がないことに気づいた。つまり不純から自由な純粋さの表現を結びつける存在として白痴しか思い浮かばなかったのである。しかし、自我という不純の存在しないモナド的意識とは、見た目上は白痴に見える可能性があるが、その当人つまり神聖意識は、強烈な覚醒状態にある。

イニシエーションの過程の初期段階において、彼は意味の世界で働く。第三イニシエーション以降は原因の世界で働くようになり、やがて存在の世界で働くことができるほど進歩する。熱誠家は、意味の世界の目的を把握して、獲得した知識を日常生活に理解をもって応用しようと努めている。弟子は、原因の世界の意義を理解して、実際的な方法で原因と結果を関係づけるように努力している。高位のイニシエートは、これら意味と原因と存在の三つの世界の力を、サナット・クマラの目的を実行するために活用する。

新時代の弟子道6 p.65

意味の世界は知識と関係している。霊的な知識を得て、それを自我に応用しようと第一段階のイニシエートは考える。第二段階に入る前に、彼は知識と関与することが霊的な自害に等しいことを理解するようになり、統御されつつあるアストラル体を土台にしてマインドの統御に魂として向かうようになる。このとき、彼は知識ではなく知恵すなわち魂の光(イルミネーション)を完全に重視する態度に切り替わる。このようにして具体マインドの時代は終焉へと急速に向かうようになり、そのようにして、形態の背後のエネルギーとフォースの世界――原因の世界が我々の見ている結果の世界に取って代わるようになる。これは注目や焦点の問題である。すでに伝導体になっているような読者は、この領域を発見することが可能である。こうして魂として生きるようになった見習いの超人は、エネルギーに精通することで、結局のところモナド自体つまり霊そのものと接触するようになり、このようにして個人的な感覚の消失が徐々に起こるようになるのである。そして魂が完全にモナドに向かって集中したとき、「純粋な瞑想」が達成され、存在の世界が明らかになる。したがって、「サナット・クマラの目的を実行する」神の意志においては、必ずしも肉体は必要ではなくなるのである。

高位のイニシエーションの光は、グループの愛によって喚起されたときに流れ入ることができる。その光は澄んでいて冷たいが、必要とされる「熱」を生み出す。…私は「霊的なエネルギー」と言ったのであって、魂のフォースとは言わなかった。ここにあなた方がいつの日か把握しなければならない違いがある。

光線とイニシエーション上 p.53

モナドの波動は、魂の波動と全く異なるものであり、完全に純粋なものであり、冷たい火か炎である。それ以前は、「純粋」の意味は概念でしか分からない。魂として生きることが日常になり、従来の活発なマインドの活動が魂によって統御されるようになったとき、魂は初めてモナドの啓示に至る。それはキリストが父と呼んだ存在のことである。この途方もない存在の輝かしい栄光が、その強烈な光の中で、我々の個人感覚を霊的な意味で強引に上書きするのである。この領域について語ろうとするときはいつものことながら、……語る能力がない。これは個人のみならず、すべてをその原初であるものが呑み込むような類いのものであり、したがってそれについて何一つとして語ることは私には不可能である。

したがって書いている途中であるが、書けなくなったため終了する。

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