私は個人と関わりを絶っている。個人という感覚に気づいてさえいない。この新しい意識領域においては、個人や個人にまつわるどのような話も埒外である。ゆえに、常に喜びに満ちており、それが兄弟姉妹に向けられるときは愛となり、内に深く向けられるときには至福となる。人間の経験の世界においては、恐怖と苦悩と悲哀が渦巻いており、あまりに危険に満ちているように思われるが、私はそのような領域と一切関わりがない。私は人間とではなく、その背後の真の自己であるものと完全に融合している。したがって、いかなる生の重荷もなく、ひたすらに自由である。このような存在の状態を可能にさせた手段は瞑想であり、瞑想によって大いなる背後の一箇であるものが引き入れられ、自我は本物の到来によってその偉大さにひれ伏し、従うことが正しいことをひれ伏す思いで理解し、自らの死を引き起こす方に喜んで協力するようになり、自我はその自我意識を完全に真我に明渡したのである。このようにして個人は放棄された。
カルマという概念を知ったとき、自分のカルマは最悪のものであるに違いないと思った。それで、自分についてはもう諦めるより他にないと思った。まさに、一日一日を耐えながら過ごした。もう自分についてはどうでもいいから、正しさにだけ生きようと願った。おそらくこのような態度が良かったのだろう。それからしばらくして、自分のカルマは最高のものであるに違いないと思った。
正しい人間として瞑想に導かれる者は、世界人口からすれば、ほんのわずかである。外的には不幸だとしても、その不幸がなければ、我々は偽の幸福感に惑わされたままで、本物を見出そうという気にはならなかっただろう。我々は、ひどく少数派であり、これを考えると、世界の不調和の理由がよく理解できる。真の調和と平和を自身において達成した者は、何人いるのだろうか。ノーベル平和賞を欲しがる個人はこの世にたくさんいるが、彼らは決して真の平和を知らないだろう。目に見える世界だけが我々においては唯一の世界であるゆえ、結果の世界でどうこうしようとあがいている盲がほとんどである。彼らに、結果ではなく、その原因である世界を教えてやろう。すると、何が平和なのかをエネルギーの世界、結果の背後の世界で理解するだろう。この領域を発見させてやろう。すると、自分だと思っていた者には無関心になり、自我の背後の魂に到達し、ひいては、すべてに浸透する真の原因である命自体をひとつの自己として理解するようになるだろう。このような超人が少数派でなくなりゆくことで、この世にいかなる争いも苦悩や悲嘆の種もなくなるだろう。このような平和が重要なことであると認識している者は、今のところはごく少数である。というのも、自分の苦悩や問題で精一杯だからである。通常の人は、このような苦悩についてもまだほとんど理解できていない。ゆえに、長生きしたいなどと悠長なことを言いながらただ生きていられるのである。大衆はまだ真に苦悩を知らない。
個人が超越されたとき、その超人にとっては、他人事というものは存在しなくなる。例えば、ある人のカルマと自分のカルマは同一のものになる。これは惑星意識の芽生えである。誰かの苦悩は私の苦悩になり、境界を引いた見方はなくなり、すべては私の中での私の責任とみなされるようになる。通常の人間は、個人や家族や会社など所属する何らかのグループの中での責任感に取り組んでいるが、意識が個人を抜け出し拡大されたとき、すべてに喜んで責任を負おうと思えるようになるだろう。例えばこの前、家のトイレが壊れかけていたため、何度か話をしたことのある、その種の仕事ができる者(ただし別の事業に従事している者)に取り替えの工事を頼めるかと聞いてみると、あなたは友達ではないから無理だと言われた。また、今どきそのような金にならない仕事をする馬鹿は少ないと言われた。私が逆の立場であれば、喜んで無料で行っただろう。また、この世の事業に従事していたならば、電器屋に頼めば3倍から4倍ぐらいはぼったくられるのだから、そのようなことがない健全な事業を速やかに組織化しただろう。私は常にそのような仕事の仕方をしてきた結果、自分の利益に執着する人たちよりも遥かに短時間で彼らが欲しがっているお金に関しては困らなくなった。それは私がお金に一度も執着した生き方をしてこなかったからである。この話を非利己的にヒントだと思える者は何人いるであろうか。
あこぎな生き方、あこぎな仕事をすることで、愛に見放されている者のなんと多いことか。目先の利益しか見えぬために、真の富や豊かさというものに決して到達できぬ我らが兄弟のなんと多いことか。誰もが愛を知り、人類が共に愛し分かち合い助け合う社会がはやく実現してほしい。そのためには、人類の子供たちに働きかけてもあまり意味はない。おのが魂を見出しうるほど自我に苦しみ疲れ果てた人類の希望である方々に、実際に魂を見出させる必要がある。これはこの世の学問や資格ではないため、具体マインドを鍛えたり知識を蓄えることで達成されるものではなく、その反対に、あらゆる執着された所有物の放棄が必要であり、そのように健全になることで、健全な生き方というものを実際に日常生活で実証しなければならず、善き者であることを証明しなければならない。いかなるあこぎも利己主義も排除しようという生き方がぜひとも必要である。このようにして人は純粋になり、伝導体としての資格を得るようになり、並行して瞑想に勤しむことで、アンターカラナの前半は首尾よく構築され、自然に魂と連結されるようになる。そのとき分離した自分が無いのと同様に他人も存在せず、すべては我であるという自由の領域が開示されるだろう。なんの恐れもない、ひじょうに美しく喜ばしく愛溢れる楽園が地上にいながら顕現されるだろう。
我々は、誰のしもべとして生きているであろうか。自分だろうか。金だろうか。外的な権威であろうか。霊的な教えであろうか。このどれであってもならない。霊的な教えに従うことが正しい時期はあるが、それはまだ個人の経験の領域である。魂に貫通するためには、霊的には早めに独り立ちしているべきである。昨日、大学で教えている同級生の友達と食事をしていたとき、「自立と自足の違いはなんだろう」と言われた。自立している者は多いが必ずしも自立は自足を包含しておらず、逆に自足している者は常に自立していると答えると、なるほどと言っていた。霊的自立も同じで、最初は自足を包含していないものだが、その必要性に駆られるぐらい成熟したとき、真の実践への意欲が訪れ、他人の教えすなわち概念の世界から焦点をずらして、自ら見出すことのできる素養が誕生する。そしてそれは見出される。結果として真我に自足を知り、その霊的自立は人類の霊的自立へと向けられるようになる。したがって、真の自立のためには自足が先に必要なのであり、言い換えると、真我を見出すことが最初に必要なことである。
真に自足を知り自立したとき、かつて必要であると思われたいかなるものへの執着もなくなるだろう。そのぐらい自足してもらいたい。自らの内にその自足させる永遠なる喜びと美に酔い痴れてもらいたい。これが顕現するためには、トイレ工事を断った者のような利己主義の殻に閉じこもった生き方から自由になって、喜んで互いに助け合い分かち合い愛し合うという精神が必要なことは明らかである。自分に籠もる者は、どうやっても真の自分に出会えないのである。逆に、すべての兄弟姉妹すなわち自分たちに生きるような開かれた精神であるときのみ、純粋な奉仕が可能となり、それが引き金となって、偉大なる名づけえぬものを内に引き込むようになるのである。これを知っている者は、奉仕を一つの霊的な科学とみなしている。無知な者は、このことを知らぬゆえ、自身の霊的な野心や欲望にのみ夢中なまま、決して真我を知ることもなければ魂と接触するようなこともない。あらゆる利己主義がそうであるように、霊的利己主義もまた自滅的なものであることを理解し、霊や魂といったものが決してそのようなものではないことを知り、自らの人生と生き方をかけて、心を開き、流入したものを正しく流出させ、得たものは残りなく兄弟姉妹と分かち合い、愛そのものとして生きることのこの上ない喜びを見出すぐらい自足せねばならない。すると、愛がおのれを救い、また別の姿かたちで顕現するおのれたちを救い、人類の真の調和と平和の鍵が常に愛にあることを強烈な輝きの中で知るだろう。