- 私は到達できるでしょうか。
無理だ。あなたがI AM Xでないときだけ、すでに到達していることを知ることができる。
- 「私は魂である」とか「私は自我ではなく真我である」といった瞑想をしているのですが、それすらI AM Xになるのでしょうか。
むろん、そうであるが、重要なことは、あなたにおけるXは常に想念であることにあなたが気づいていない点にある。私は魂であるとか、私は真我であるとか、これらもまたI AM Xであり、マインドに騙されているときのみ生じる。名づけられ、命名されたものはすべて偽物である。一方で、I AM not Xは常に正しい。こうして否定されたあと、最後に残るのがI AMである。
- すみませんが、私にはI AM not Xですら想念であるように思えます。
あなたの場合は論理的な思索の末に自身がXではないという結論が導き出される。これらは具体マインドの活動過程にあり、想念の戯れである。一方で私の言う「I AM not X」は具体的想念ではなく抽象的認識であり、直観である。あなたの「I AM not X」は理論だが、私の「I AM not X」は直接的な事実認識である。この違いをいつの日にか人類は理解しなければならない。人類における知性は、今のところ具体マインドの領域にしかない。私の知性は、そのようなマインドが静かなときに存在しうる隠された知性である。それは考えることなく知る能力である。
- ついていけません。覚者方は、「あなた方は真我である」と教えられます。それで私は、自分が自我ではなく真我であると考えます。これがいけないことなのでしょうか。
そのような概念で遊んでいる人は多い。先に進みたいならば捨て去るべきただの想念である。誰かは忘れたが、あなた方が尊敬するような聖者が、自我と真我の関係性を、海と海に浮かぶあぶくに喩えた。これは的確である。あなたは、海にうかぶ泡やあぶくとその都度、自己同一化するのである。泡やあぶくは想念である。あなたが想念と無関係であることを知るならば、あなたは海そのものである。別の言い方をしよう。普遍という概念がある。あなたが普遍を概念で知るとき、その普遍は有限である。あなたのマインドゆえにその概念は有限である。しかし、本物の普遍は概念の外にあり、マインドのいかなる限定も受けていないため、それは真に無限なるものである。この無限をマインドは決して知ることができない。
- あなたはマインドの外の真理をどのようにして知ったのでしょうか。どのようにしてマインドは乗り越えられたのでしょうか。
本物と偽物の識別によって。これを識別させたのはXではない。Xが瞑想で静かなとき、知恵ないしは直観という識別力が訪れたのである。すると真理は、見えていたが見えていなかった類いのものであることが理解された。ニサルガダッタ・マハラジは、新聞を読むとき文字の背後の空白に気づいている者はいないといったが、そのような意味である。見えていはいるが気づかれていないものである。それは我々が見えたり感じたりする表面上のものばかり追いかけているためである。結局のところ、焦点の問題である。
- 私は混乱しています。私の瞑想は間違っており、私はどうすればいいか分からず、絶望的な気分になります。
それはあなたがXに構うからである。Xの言うことに耳を傾け続けるならば、心は壊れるだろう。あなたにはまだ自分がXであるという感覚や想念があるだけである。Xが創り上げる架空の心配事つまり泡やあぶくに構わず、ただ瞑想しなさい。錯覚は去るだろう。
- どのような瞑想をするというのでしょうか。あなたは瞑想に方法がないと言い、私には何もできないように思われます。
実際にXには何もできることはない。Xが静かなときでさえ、あなたは純粋な魂として、低位であれ高位であれ何かに気づいたり認識したりすることができるだけである。言い換えると、徹底的に何もできないし、する必要もない。する主体というものが存在しないのだから。これを知ることが自由である。行為はあなたの想像であり、存在だけが事実である。これを知ることが解放である。
- あなたの言う「知る」とは、私たちの「知る」とは違う意味なのでしょうか。
そのとおりである。あなたの知は想念であり、その背後には恐怖がある。私の知は想念を生み出すマインドが静かなときに知られる知であり、その背後には平和と至福がある。
- 私はかつてあなたがそのような段階に到達していないときから読んでいます。何が起きたのでしょうか。どういう過程を辿ってそうなったのでしょうか。
簡単に言う。死体を見てほしい。それは動かない。死体というただの形態に何かが入ったとき、動き始め、生きているとみなされる。我々は肉体を自分であると思っているが、肉体のみでは死体なのである。無力でありゼロである。このことについて考えなさい。すると、あなたが動けるのはあなたによってではないことを知るだろう。次に、肉体を動かす力は二つに分けて考えることができる。普通の人間を動かしている力は、アストラル体とメンタル体を通った後のエネルギー、つまりアストラル・フォースとメンタル・フォースである。しかし、フォースはそれらの体に条件づけられ特質づけられているが、そうなる前は純粋なエネルギーである。あなたのアストラル体とメンタル体が魂に服従するようになったとき、肉体を動かすのは魂のフォースである。これは法則と一致しているが、真の意味で自由なエネルギーではまだない。魂の体つまりコーザル体に条件づけられているからである。あらゆる条件づけ、特質づけが行われる以前の純粋で自由なエネルギーが霊つまり真我である。それは条件づけが行われた後のフォースにも内在しているが、何らかの形態に閉じ込められている。このエネルギーとフォースの違いを識別し、肉体や精神であるあなたを条件づけるフォースから(エネルギーと一体化することで)自由になりなさい。私はいま本質的なことを語った。これ以上の説明は不要である。
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