駄目な人間

私はメンタルが弱く塞ぎ込んでいます。このような私の瞑想に希望はあるでしょうか。

メンタルが強い者でも不幸が続けば弱くなる。人間のメンタルは不幸の連続には耐えられないものである。したがって、通常は不幸と幸福は交互に訪れる。心配と安心も交互に訪れる。しかし、それはあくまで繰り返しであり、解決ではない。瞑想の先にあなたは解決を見い出すだろう。なぜならメンタルは超越されるからである。パーソナリティーが不幸なときでも幸福なときでも、常にあなたはそのような低位の感覚から自由であることで、いつでも喜びと至福に溢れるようになるだろう。

私の人生は滅茶苦茶です。心は平和ではなく、日常の世界も平和ではありません。私は暴力的であり、心は闘争的であり、常に誰かに苛ついています。例えば私は昨日妻に大変な怒りをぶつけてしまいました。二回離婚しましたが、また離婚するだろうと思うと耐え難く落ち込みます。私は、はっきり駄目な人間なのです。

たぶん、私はあたな以上に駄目な人間だった。にも関わらず瞑想したら救済された。つまり、個人は無関係なのである。世の中では、素晴らしい人間だけが到達するくらいに思われている。そんなことはありえない。到達後に、徐々に副次的に素晴らしい人間に近づくのである。ニサルガダッタ・マハラジを見てほしい。到達後ですら気性が激しかった。そこはあまり重要な点ではないのである。

駄目な人間でも瞑想したら救われるのでしょうか。

あなたが見い出すのは、自分が駄目な人間ではないということである。いま、一時的に無能な人間に宿っていようが、それはカルマの問題であって、あなたの問題ではない。

正直に言うと、私は不倫しています。妻はそれに気づいていません。ひどい罪悪感がありますが、私はすでに妻に興味がなく、新しい女性のことしか考えられないのです。このような私をあなたはどうお思いになるでしょうか。

起きることはあなたの責任ではない。これだけを覚えておきなさい。

私はカルマ的に罰を受けるでしょうか。

罰ではなく、学ぶための苦い機会が個人に与えられるだけである。起きることは最初から決まっており、それは全体の一部であり、永遠の視点からすればすべては荘厳なるものである。

私はその「苦い機会」で苦しむことになるでしょうか。

真我を見出していない場合はそういうことになる。しかし、あなたはあなたではないと私は言っている。これを瞑想で見い出すことだけが重要である。最初にあなたは魂を見い出すだろう。すると、「苦い機会」の期間ですら苦しみからは自由でいられるようになるが、だからといって「苦い機会」の意味である教訓をあなたが学ばないということではない。あなたは余計な苦しみを味わうことなくその機会から多くを学ぶであろう。

私が言うのもおかしいですが、それは妻からすれば不平等ではないでしょうか。私は妻を裏切り、他の女性の肉の快楽に溺れ、その罰に関して苦しみを受けることがないならば、妻の視点からすれば正義はこの世にないように思われます。

妻が裏切られたということは、妻もかつて誰かを裏切ったということである。妻はいま報いを受けている最中であり、学ぶための機会に直面している最中である。あなたの場合は今後にそれが起きるというだけの違いである。しかし、誰であれ自分が特定の個人ではないことを知ったとき、徐々にカルマの様相からは自由になり、地上に縛り付ける余計なカルマを作らないほど知的にもなる。

私は不倫を止めることができません。だからといって妻と昔の関係に戻ることもないでしょう。ひどく利己的な質問であることに我ながら反吐が出る思いですが、このような状況でも瞑想を続けるべきでしょうか。このような自分にも瞑想は恵みをもたらしうるでしょうか。

先ほどから言っているように、あなたの言う「私」が自分ではないことを瞑想が教えるだろう。それだけで十分である。他の話は忘れなさい。罪悪感も忘れなさい。起きることはあなたの責任ではない。あなたがあなたを見出した後、あなたは内に平和を知り、それにしたがって外も平和になるだろう。

本当に自分で言うのもなんですが、罪悪感は簡単になくなるものではありません。

だから、それはあなたが自分を行為者だと思っているからである。あなたの肉体を動かす力を魂に服従させることが、瞑想の最初の目的である。あなたに罪があるとするならば、それはあなたの瞑想不足である。すなわち、無知の放置である。

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