閉じた目が開かれるとき

目を瞑ることと、目を開けることにおいて、意識に差が生まれるのは何故だろうか。瞑想で高位の意識に入る者も、瞑想が終わり日常に戻るとき、否応なしに自我的になるのは、目を開けたときに何を間違ったからであろうか。ここは誰もが理解しなければならない重要な点である。通常は、目を開けると見えるものと同一化し、つまり内向きであった意識が、見えるものの実在性を認める脳意識の自動的な習慣によって、外向きの意識に転換される。このようにして分離が始まり、瞑想中の個の喪失から、再び個が活動的になり、我は肉体であるという感覚に屈服する。意識は完全に外に焦点化される。ではどうすればいいのか。今述べたことから明らかなように、内向きの意識を維持したまま世界を眺めることである。普遍的魂と一体化したまま、意識の中に世界を見、世界の背後に万物の魂を見、感じ、それそのもので在り、真我すなわち生命以外のものは存在しないという至福意識を、眉間のセンターから維持することである。

我々が見えると言うとき、それは物質界の濃密な物質つまり個体や液体などを指している。形態の相として、いわば振動率が粗いもの、波動の低いものを指している。粗いものがより細かくなり、振動率が上がり、速度をはやめ、より軽く澄んだものに変化するにつれ、肉眼では捉えきれなくなり、科学ですら確認できていない場合、存在していない扱いになる。しかし、高位の視力か別の意識においては、科学が見えないものすら見える人もいるのである。

このような話をするとき、時々聞かれることがある。「幽霊を見る人や霊能者は発達した存在なのか」と。ジュワル・クールは、犬ですら見えると言い、そのようなアストラル界の視力を退化扱いし、先祖返りとさえ呼び、悪い兆候、捨て去るべき視力であると言い、最初に必要な視力がエーテル視力であることを強調したが、第三イニシエーションを受けるまでに高位の視力を発達させることは全く賢明ではないことを警告した。

話を戻すと、内向きの意識でありながら変化する形態の相に惑わされず生きることは可能であるのか。形態は変化する。変化するものは実在ではなく、何らかの原因の結果である。意識において何を見せられていようと、我であり全ての形態の原因であり、動く存在であるよう形態を賦活する生命に意識と注目を固定させているならば、見えるものや現象という結果が我々の意識に影響を与えることはない。そのとき、我々は決して肉体意識に生きる者ではなく、魂や霊意識に生きる者であり、これが真の霊能者である。このような霊能者は、すべての兄弟姉妹の苦境に助力させて頂けることに感謝する者であって、助けるから金を貰おうかと言う者ではない。真の霊能者は「値なしに」分かち合うことを喜ぶ。真の霊能者は、実在という普遍かつ永遠なる富を知っており、偽の霊能者は金銭や対価を要求する。我々の日常の態度はどうであろうか。672夜の読者の中にも、必要以上に金を求めている者がいる。肉体を去った後、かき集めた金に価値がなかったことに気づくだろう。しかし、なぜ生きているうちに気づかなかったのだろうか。

イニシエーションを準備している弟子は、しばしばカーマ・マナス的な象徴である金という錯覚でテストを受ける。つまり、途方もない金を手にすることも可能であるが、1円も自分の懐には入れず、また自身の欲求のために誤用したいという誘惑にも駆られず、実際に受け取ることを拒否したか、この実証を我々の現実世界でテストされる。イエスが荒野で断食しているさなかに受けた三つの誘惑もまた、それぞれマーヤ・グラマー・イリュージョンに対応しており、それは第一と第二と第三イニシエーションに対応している。重要なのは、「わたしを拝めばすべて与えよう」と悪魔が提示したとき、イエスがそうしたように、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と命じて拒絶できるかどうかである。この話は、本物と偽物の識別の話であるが、それが可能になるのは、本物に意識が固定されているためである。変化する外の現象に惑わされ同一化するのではなく、内向きに焦点化することで、瞑想で達成した最高の意識を維持したまま、目を開け、立ち上がり、活動が行われている様を、内部から、つまり摩擦や分離のない境地から眺めうるかを、我々は問われているのである。つまり日常で実践できるのか、できないならば何故なのか考えようか、という話である。

これは難しいと感じるだろう。感じない人はすでにイニシエートである。しかしながら、瞑想の高い意識から、ただ目を開けるだけで意識が落ちるとき、その苦しさにどうやって耐えるであろうか。調和していた気が乱れ出し、不調和の結果である分離意識へと転落し、絶えず摩擦の苦しみに苛まれつつ、何秒あるいは何分耐えられるであろうか。平和を知った者が、あえて戦争で殺傷し合い苦しみたいと願えるであろうか。霊から物質へと寝返ることを望みうるだろうか。苦しいだけで、一つもメリットはない。このような苦しみを普通の人は全く知らない。それは神の意識を知らず、今のところ自我意識しか体験がないゆえ、その低い意識、粗雑な形態との同一化が習慣になっており、まさにその習慣によって間違いに慣れてしまっているからである。このとき、一時的に内包されている苦痛は無効化され、自我意識であることに何も感じないということが可能になる。彼らが瞑想したらどうなるだろうか。徐々に意識は真の我が家へと帰還し始める。帰還の道あるいは器官自体が開発されるようになる。こうして徐々に意識は高い次元のものと一致して振動するようになる。より精妙で微細な高位の器つまり高位の形態と一致できるようになる。こうして我々は天の御国に入る資格を与えられる。このデメリットは、上を知る者の宿命として下が耐えられなくなるというものである。ひとたび一体性を知った者が分離に戻るならば多大な苦痛が不可避になる。言い換えると、人間に戻ることが許されないという意味である。

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