愛の外道

瞑想に熟練するにつれ、様々な波動と接触するようになるだろう。解説するとき、例えば「魂の波動」という言い方をする。言葉にするとき、すべてが事実ではなくなることに心苦しさを感じる。弟子が主に扱うのは魂の波動であるが、そのような分類をするのはマインドである。実際は私自身であり、「私と魂の波動」といった考え方には、強い苦痛が伴うものであり、いかなる分離もあってはならないことを覚えておくべきである。前の行を書いてから、しばらく時間が過ぎていたようである。言葉をまさぐるうちに、入ってしまい、肉体が何をしていたかを完全に忘れていた。目を開けたとき、文章を書いている途中である状況であったことに気がついた。記憶喪失のように、「この世では何が起きていたのであろうか」から始まるのである。書かれているとき、この世界に意識を保っておく必要がある。書くことは一種の分離行動であるゆえ、しばしば強烈な一体の引力が働き、意識を引きさらっていく。この症状がいわば悪化するならば、私は話したり書いたりすることがますます難しくなるだろう。

私はおそらく、波動を引き合いに出し、何であろうとすべてが一体にして我そのものであることを書こうとしたのだろう。書いている者と読んでいる者もまた、本質において同じ魂、そして同じ生命である。この領域は人間の肉体脳では想像ができない。それらの活動が本質の識閾下に落ちたとき、真に途方もない栄光が知られることになるだろう。解説することは分解することである。しかし、本当はいかなる分解も不可能であり、存在するのは私つまり真我のみである。これを理解することが解放であり、自由であり、際限なき至福と喜びである。

私には、簡単なことに思える。あえて分離することの方が遥かに難しく苦痛である。肉体の私が長年苦しみもがいていたが、何によっての苦しみなのかが分からず、輪をかけて苦痛だった。真我すなわち全一体を忘れたことが言い表しようもない苦痛の根本原因だったのである。天国とは一体のことである。シャンバラとは一体のことである。それらは場所ではなく、どこに肉体が置かれていようとも、意識が超越に入るならば、個人がどのような状況であれ、その痕跡すらなくなり、神の完全さのみが実在するだけである。

一体の意味は自我には分からない。マインドには理解不能である。それは意味を超えている。招かれる人は多いが選ばれる人は少ない。招かれていることに気づこうとする人がほぼいない。神の王国の建設は深刻な人手不足である。しかし、誰が招くのか。神と我とは一体である。だから真我と言うより、神我である。肉体の方の私は日本人であるゆえ、日本語の面白さにしばしば喜ぶ。真の我とは神なる我である。これが帰還ではないのか。すべての迷える意識たちが帰り着く懐かしきふるさとではないのか。

人間の世界は、私には無関係で、何の実在性もなく、勝手に流れている物語であるが、この文章で重要な箇所は、「無関係」というところである。普通の人は、関係があると思っている。そこには自分という責任感覚がある。この苦しみを考えると、ほとんど涙がこぼれんばかりである。そういえば昨日は、建設会社の跡を継がねばならなくなった二十代の女が、土方や取引先の者や、あらゆる者から馬鹿扱いされ軽んじられていることに限界であると言って泣いていた。いっそのこと、悪の道に染まろうかと思ったものの、私にはできませんでしたと言って泣いていた。簡単なことで、辞めればいいと言った。そのような責任を放棄してしまえばいいと言った。すると、本当に辞めたいと考えていましたと言い、辞めていいと言ってくれたのはあなたが初めてですと言ってさらに泣いていた。可哀想に。このような無知の涙をどれだけ流せば我々は導かれていることを知り、また辿り着きうるのであろうか。我々は肉体ではないし、女や男でもないし、そのような非実在が背負っている責任とも無関係である。瞑想を知らぬゆえ、人々は偽物に錯覚を受け、振り回され、本物ではなく偽物に仕えている。これでは、気が休まらないし、気が楽にならないままである。世の中の常識など、捨ててしまえばいいのに。そうして、神我へと逃避すれば万事がOKである。

通常の常識では、個人の責任から逃避することが悪とされている。しかし、個人の責任を放棄せずして、どうやって神の道に入れるというのだろうか。肉体に仕えてどうしますか。私に流れる教えは次のように言う。捨て去り、楽になりなさいと。無一物になりなさいと。これが人々に難しいのは、肉体を養わねばならず、家族の肉体も養わねばならず、お金を稼がねばならないからである。神のみに仕えよ。神とともに在れ。神そのもので在れ。すると、神が勝手に養ってくれるだろう。この真実なる教えは、おのれを肉体と考える者には難しいが、私は神というか本物に従い生きてきたゆえ、肉体世界では金のために金に仕えて働くこともなく、完全に神に養われており、完全に神の美しさ素晴らしさに喜び生きている。美とは、肉体の美でもなければ、整形手術でみな同じような顔にすることでもない。「気」が狂っているから、肉体の我を認められたいという強迫観念に苛まれるのである。私といえば、個人などはとっくに放棄して、神に招かれていることを理解し、すべてのすべてが真実は神に選ばれていることを知り、目に見える錯覚の分離を無視して、完全調和に魂の涙を流し、感激に絶えず打ち震えている。私は真の世捨て人である。肉体からの真の出家である。ゆえに愛そのものである。

親や周りは言う。学校に行きなさい。良い成績を収めなさい。立派な人間になりなさい。努力しなさい。頑張りなさい。もっとしっかりしなさい。困難から逃げずに立ち向かいなさい。強くなりなさい。自分というものの価値を証明しなさい。……勘弁してもらいたい。

これらが真実であるとは絶対に思わなかった。ゆえに、私は常に意図的に人の道から外れ、神の道のみを追求した。宗教的な人間ではなかったため、神という概念は持たなかったが、一体すなわち真我を知ったとき、我が神であることを理解した。神が何であるかを一体において理解した。目に見えるものの実在性を信じず、それらを超越した真の本物のみを招かれるがまま瞑想で追求したとき、私が誰であろうとどこにいようと全く関係なしに、真の我と合流し、あらゆる無知や迷いや錯覚は消え去り、神の荘厳なる大愛に包まれて、乱れた気はひとところに収束し、真の気楽、真に気が休まる場所、すなわち全てが一つに収まる真の安心、真に恐怖なき安全が訪れた。我は唯一なる命そのものである。これを教えてくれたのは魂である。魂の拡大された意識である。

はっきり言うが、見えているもので存在しているものは一つもない。我々が見せられている世界は、巨大な詐欺である。その世界には何の真実性もなければ、何一つ求める価値のあるものはないと私は言い切る。もっと安心してもらいたい。楽になってもらいたい。そのためには、しがみついているものを手放すより他にないのである。手放したくないものを手放そうとすることではない。瞑想で本物に接近することによって、偽物には興味も関心もなくなるのである。実在ではないのだから。人々が神と呼ぶ唯一なる我つまり生命のみが実在である。これなしに在るものはないし、これから離れたれたものも一つもない。瞑想でこれを見い出すことだけが人間の生きる目的である。そして、この目的に招かれていない者、選ばれていない者、導かれていない者は、一人とて存在していないことを完全に確認した。人間意識、個人という分離した意識を信じている者だけが、恩寵の流れに逆らっている。これは無知が原因である。したがって知恵と合流すべく、今日も我々は瞑想に入るだろう。招待主にして真我であるお方に接近するだろう。そして、そのお方と自身が一体であることを徐々に理解しゆくだろう。見えるものを超え、マインドという仮象を透過し、実在に至るであろう。そして、実在とは一体である。

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