それはこの世の話だろう

知覚者の意識の中にすでに存在するか、部分的であれ存在するものにしか接触することはできない。したがって、知覚者が敵意と憎悪を感じたとすれば、それは彼の中にも敵意と憎悪の種子が存在するからである。それがなければ、和合と調和しか存在しない。これは普遍的な愛の最初の段階であり、すべての存在と一つになろうとする熱誠家の実際の努力である。まずは自分自身に着手し、自身の性質の中にある有害さの種子を一掃するように努める。そのため、自分や他の人々への敵意を生む原因に対処するのである。その自然な結果として、彼は平安を感じ、他の人々との間にも平安が生まれる。彼の存在の前では野獣も無力になるが、熱誠家やヨギのマインドの状態によってそのようになるのである。

アリス・ベイリー「魂の光」p.203

敵意や憎悪に飲まれる者に対して、私は簡単な答え方をした。「それはこの世の話だろう」と。例えば、夢で起きたことに立腹している者がいたとして、「それは夢の話だろう」と言って誰もが一笑に付すであろう。私には同じことに見える。

上の引用でDKは言っている。学ぶ者は「自身の性質の中にある有害さの種子を一掃するように努める」と。これを、個人的な自己改善の努力として解釈しないようにしてもらいたい。この世の問題でそのやるせいない怒りを私にぶつけてきた者も、自身の敵意や憎悪が良くないことは分かっているし、そうならないよう努めてはいるが、無理だと言っているのである。感情に飲まれている者が、どうやっておのが内部の有害性を一掃できるであろうか。

弟子のやり方はこうである。最初に一掃された領域を発見するというものである。我々がこの世では問題児だろうが暴れ者であろうが関係ない。実際に私はそういう者に当てはめられて生きてきたが関係なかった。全ての人の内に「和合と調和しか存在しない」領域がすでに在る。ここに意識を偏極させることが一掃の方法である。一掃されていない乱れた領域で悪戦苦闘しても怒りや憎悪は激しさを増すばかりであろう。それらは押さえつけることはできない。だから私は、焦点をずらしたいと考える。この世から焦点をずらした考え方があることを伝えたいと思う。だから、「それはこの世の話だろう」と言ったのである。

自我意識である場合、この世だけが唯一の現実世界になってしまう。ここに危うさがある。我々が言っているのは、新しい意識領域が存在し、その平和で美しい和合の世界からすれば、我々の現実世界は夢に等しいと言っているのである。これは夢物語ではない。夢のような話でもない。偽物と本物を識別するようになり、本物だけに意識を偏極させて生きれるようになるならば、意識は拡大され、低次の意識は識閾下に落ち、我々の世界で起きていることや、我々の個人的な問題や感情といったものは、ちょうど海の底に沈んだ状態のようになる。表面にはもはや出てこない。高位のイニシエーションを受けるまでは、ときどき、その残り滓のようなものがあぶくのように出てくるかもしれないが、本質的には海の底に沈んでいる。つまり影響を受けることはなくなる。

別世界を求めて人は旅に出る。どこに行っても、ついてくるのは「私」である。だから、問題児がどこに逃れようと、逃れた場所で再び同じような問題を起こす。「私」からは逃げられないことを知ったとき、普通の人は、「私」を変えようと努力する。少しは成功するかもしれないが、基本的にそれは押さえつけであるか、別のスポーツや趣味やイデオロギーといったものにエネルギーと注目が置き換えられるかでしかなく、本質的には解決されていないため、それらが失われたり、何かが起これば爆発する。その何かが起きるかは運次第であり、また時間の問題である。このような迷いに一撃を食らわすのは瞑想である。なぜなら瞑想は、向きを変えることであり、「私自身」に注目を焦点化させること、あらゆる外から内へと目を開かせることだからである。これほどの目から鱗は存在しない。

瞑想は難しくない。最初は瞑想ができないと感じる。なぜなら、内部がうるさいからである。それで、私には無理だという結論がしばしば導き出される。まだ、「無理でいい」ということを知らないのである。だから初心者は、努力のない根気を最初に学ばねばならない。それは待つことに似ている。期待のない待機である。より熟練したとき、それはただの存在である。眉間に意識を起き、実際には眉間よりもやや上部、額の下あたりになるであろうが、そのあたりに脱獄のルートが存在している。我々がなるだけ静かで在り、静かであることが心地よいことを知っており、そのあたりに意識を向け続けているならば、上から働きかけてくれている存在にやがて出会うだろう。最初は波動として認識されるだろうが、その波動が何をしているかを見るといい。もしくは、その波動と同じリズムで一致するのである。やがて、簡単にその源と融合できるようになるだろう。これが真の大脱獄である。

聖なる眉間の向こう側から、誰かが穴を掘ってくれている。肉に閉じ込められた意識を解放し救出すべく、向こう側からトンネルを掘る音が聞こえてくる。その振動が伝わってくる。内部に協力者がいたのである。外の世界では誰からも軽んじられ疎んじられて孤独であろうとも、内部には真の旧友にして双子である仲間が存在していたのである。彼の名を人は神と呼ぶ。まさか、いくらこの世で助けを呼んでも助けてくれなかった神が、外の世界では沈黙し、内なる世界からは助けようと尽力していたとは誰も気づかないだろう。神の領域はこの世にあらず。この世への執着を解き放ち、無一物となり、小さき者となり、駱駝であった者が針の穴を通れるまでになるとき、こちら側と向こう側の双方向から掘られていたトンネルは貫通する。すると新しい意識である。本来の和合の意識である。

目次