一人相撲

多くの秘教徒は、道を辿るということは、低位性質を克服し、正しい生活と思考、愛と知的な理解という観点から生命を表現しようと意識的に努力することと考えているようである。それはそうであるが、それ以上のものである。善良な性格と善良な霊的熱誠は基本的な不可欠要素である。しかし……それらの基礎と、それらを認識して発達させることは見習いの道での目標である。

アリス・ベイリー「光線とイニシエーション下」p.63

不親切に接した者は、自分こそは親切でありたいと願うものである。善良さを売りにしている者がいざという時に善を示さなかった場合、失望し、自分こそは「いざという時」でも、つまり自身を犠牲にしなければならないときですら、兄弟姉妹のために善意と親切心を体現できる人間でありたいと決意するものである。このように、人々の自己中心や弱さに落胆した者は、自分こそは真に強く正しき者でありたいと願い、決して大口を叩かず、人々が尻込みするような場面でさえ、果敢で果断な精神でありうるよう、日頃から準備を怠らないものである。しかしながら、これらはパーソナリティーの訓練に属している。個人の経験が引き金となった、個人の改善や目標に属している。これは悪いことではないし、基本的な正義感や善への志向は初期段階で習得すべき「不可欠要素」ではあるが、それらが霊的な意識へと直接導くというわけではない。霊的な道を辿るということは「それ以上のもの」である。ならば、具体的にそれはどういうことを意味しているのであろうか。

一言でいえば、次元が違う。注目と関心の領域が違う。その根本原因は一つであり、自分を知らないことである。おのれを特定の肉体や精神と錯覚し続ける場合、死ぬまで自分をその人間だと思い続けることになるだろう。つまり霊的には突き抜けない。だから、あなたはその人間ではないと我々は言っているのである。

この学習は瞑想の段階に属する。瞑想者が到達するのは、秘教徒が「孤立した統一」と呼ぶ存在の状態である。この孤立には、個人からの孤立も当然含まれている。個人からの孤立とは、我々が自分と思っているものとは無関係になるという意味である。個人意識の感覚からの自由である。そのとき我々は、自分事とか個人事とか呼ばれてきたものに対し、完全に観照的になる。この世の密教徒などが不動明王と呼んでいる信仰対象は、実際はこの観照意識の象徴である。起きていることに明敏に気づいてはいるが、気づいているのは別の意識領域からであり、その領域に影響を及ぼしうるものはこの世には存在せず、ゆえに完全に不動のまま、揺れ動くことなく、まさに不動であることによる力――個人が介入することがないことによる純粋な経路を通る力が、物事や運命を統御するようになるのである。この状態こそが道である。

多くの初心者の間違いをさらに一言で表すならば、「一人相撲」である。苦闘しているであろうが、戦っている相手は実際は存在していないことを知らないのである。もう一度言うと、戦う相手は存在していない。通常であれば、修行とは自分との闘いであると言われている。自分が自分と闘うとき、それを一人相撲と言うのである。勝手に自分で目標や闘うべきものを探し出してきて、それと相撲を取っているという、まさに錯覚ゆえの苦闘である。なぜかを一言でさらに言えば、彼がパーソナリティーの次元で生きているからである。個人の領域では、分離が存在し、比較が余儀なくされ、勝つため、生き残るためには、相対的に何かに秀でる必要があり、また劣ったものを優れたものにする必要があり、それらの責任は自分にあるとされ、大変苦しい思いをしなければならなくなる。その必要が全くないにも関わらずである。一人相撲を傍から見た場合、それは甚だ滑稽に見えるに違いない。その原因もまた無知によるものである。

そして無知とは、自分が何者であるかを知らず、物質と現象の領域におのれを閉じ込めて、そこを超越した領域にこそ真の自分が存在し、また真の棲家や憩いが存在することを知らないか認められない限界意識のことである。この限界意識の原因は、洗脳されたマインドである。我々は、人々や時代の常識にそもそも洗脳されている。或る者が統一教会とか創価学会とかの信者だったとして、なぜかと問うならば、親がそうだったからと答える者は多い。国や環境によって信じている宗教や思想は異なる。あるいは日本人ならば無宗教と言い、信じるに足りない理由を信奉している。何であれ、弱いマインドが原因である。頭が弱いのではなく、むしろ多くの者は頭は鍛えているが、それゆえにマインドが弱いのである。分析力や照合する能力は、その者の性質や既知の知識に依存している。結果、「~であるに違いない」と言う。言い換えると、四六時中、マインドの中に生きているのである。これが無知の原因である。

ところが、瞑想の効能とは、マインドを静めるというものである。すると、我々のそれまでの知性は海に沈められ、その背後の、あるいは上空の、真の知性が輝き出す。これは、我々が知っている具体的な知性の前の、具体化する必要のない抽象的な知性である。言葉や文章など、いわば衣や形態を纏った状態で理解する領域ではなく、形態を纏う前の純粋なアイディアの領域である。ここで我々は多くを瞬時に知るようになる。これが、考えずに知るという、直観ないしは純粋理性の領域であり、その領域に意識が到達するということは、マインドが魂に統御されており、個人が魂の光の中に没し去っているということである。そして、この個人が去った後の領域、もしくは個人が知覚され得ない領域にのみ、辿られるべき霊的な道が存在しているのである。

ここまでの文章は意味不明だったであろうか。ならばより具体的に方向性を示す。一人相撲は間違いである。その領域に霊的な道は存在していない。だから永久に辿り着かない。これを世界中の人々がまだ知らないのである。彼らには経験という意味で重要なことではあるが、分離した個人の領域で奮闘している最中である。しかし経験を積んだ者であれば、そこに解決がないことを理解するはずである。私の言うことを否定して、自分で頑張ってみたところで、自分を肉体と思ったまま臨終を迎えるだけである。そして肉体を去ったとき、「あぁ、死んだか」とあなたは言う。しかし、「死んだにも関わらず私は生きている、あるいは存在している」ことに気づく。そのときになって、自分が肉体ではなかったことに気づいても遅いから、今考えてもらいたいのである。今、戦場が場違いであることを理解してほしいのである。

だいたい理屈が分かるならば、日頃の瞑想の中ですら、我々は一人相撲をやめるだろう。すると無抵抗になる。何かが出来なくても、それでいいことを理解する。なぜなら、我々の力によって出来ることは一つもないからである。我々の力で我々を静めるという文章は論理矛盾である。だから、別の力が我々を静かにさせるという基本原理を知り、その神聖な力の経路になるまでは、沈黙の期待なき待機が瞑想である。そのとき彼の拠り所は、「私は在る」だけである。「私は存在している」という事実だけである。初めてニサルガダッタ・マハラジの本を読んだとき、「私は在る」とはどういう意味だろうと思ったのを覚えている。そして、結局は意味が分からなかった。というのも、私は、「私は在る」という感覚を探そうとしていたからである。このようなマインドの騒動により、「私は在る」が分からなかったと言える。マインドがより静かになり、騒動が収束するとき、残ったものが「私は在る」である。残ったものが輝き出すことが、真我顕現である。

目次