神通力

全ての弟子たちは、生来備わっている所有権により自分のものであるフォースとエネルギーを活用することを学ばなければならない。これらエネルギーとフォースを、平均的な人々が理解した上で活用することは稀でしかない。彼らは通常、これらのパワーの犠牲者であって使用者ではない。自分が随意に引き寄せることのできるエネルギーがどれだけ途方もないものであるかを認識している人はほとんどいない。

アリス・ベイリー「新時代の弟子道3」p.61

人工知能は何にでも答えてくれると思っている人は多い。私が見た感じでは、非常に適当に答えるだけであり、現状では無責任、つまり放置すると危険とみなすべき代物であり、知的ではない人に対してのみ有効な知性の模倣にすぎない。なぜ神に似せて作られた人間がこのような偽物に頼る必要があるのだろうか。もちろん、有効利用できる部分はあるだろうが、私は人間の頼り癖、無知で無力な状態に置かれている弱き人類の状況を嘆いているのである。と同時に、力ある強き存在へと変貌してほしいと願っている。個人の目的のためではなく神の目的のために自己開発してほしいと願っている。いつまでも人間のように無力であってはならない。我々は人間ではない。その原因である。

何にでも真に正しく答え、何にでも真に正確に対応し、何に対しても真に解決可能な知恵と力が存在すると言うならば、我々は信じるであろうか。しかも、それは普遍的な尽きることのない万物の財産であるゆえ、誰においても24時間完全無料で使用可能である。年齢制限もない。お断り事項としては、悪事つまり誰かや何かを苦しめたり有害なことに使用せんとする者には、逆にその者に災いをもたらすゆえ、そういった人類の幼な子たちにはまだ秘められた力は利用できない。とはいえこの話が事実なら、誰もが欲しがるだろう。その力を使えば、自分では対処不可能と思われていたものが対処可能になり、病気は癒え、悩みも苦しみもなくなり、自我にとっては必要な「この世の問題」というものが徐々に消えてなくなる。これを仮に霊力と呼ぶならば、何人か逃げ出すだろうか。また何人かは笑うだろうか。ならば、人間に内在するエネルギーと呼ぶならまだマシであろうか。我々は言葉を話したり文章を書く場合、何らかの単語を使用しなければならないため、言葉だけで判断せず、その中身を吟味する必要がある。この夢のような万能力は、すべての人に備わっている。今備わっている最中である。しかし気づいていないのである。これ以上に「もったいない」ことはあるだろうか。そう思うゆえに、見出してもらうべく書いている。

この何日かで、また二人、「原因不明」の咳に悩んでいる者がいた。一人は又聞きだからよく分からないが、どうしようもないから咳に苦しみながら生きていたら、肺に水が溜まって入院しなければならなくなったと聞いた。もう一人は、実際に私が「霊力」で緩和した。治癒ではなく緩和と言ったのには理由がある。まず、その者が私に治療を受けている最中、なぜ咳が出ないのだろうか。咳が出ないものだから、治ったと思うのである。しばらく前に首を治療した人もそうだった。一生コルセットをつけたまま生きなければならないと思っていたのに、首が痛くない、首が動く、右にも左にも、そして回すことすらできる。だから治ったと感激するのである。しかし、私という媒体の霊力領域から離れて家に帰り、何日か元の自我で暮らすならば、徐々に症状がまた出てくるではないだろうか。

これは「霊力」に問題があるのだろうか。「霊力」に効能の期限があるのだろうか。そうではなく、自身でそれを打ち消したのである。この世では、霊力と物質力がいわば対立している状況である。言い換えると、乱れていない気の上で、乱れた気が傍若無人に好き放題、野放図に暴れ猖獗を極めている最中である。戦争や天変地異、あるいは病気や事故、あらゆる苦しく辛い不幸は、人類の個人的な、そして総合的なエネルギーの誤用に基づく現象的な顕現である。昨日は「行為者」について書いた。「私が行為者である」と思うとき、それは実際は「物質力」に動かされているのである。ブラヴァツキーの引用では、三つのグナが動かしているだけだと言っていた。どのような説明の仕方でもいいが、この物質の力に影響を受けて飲み込まれてしまうことが、「霊力」を打ち消す原因である。そして、人間を無知にさせ、虚弱で他力本願な「一般人」に仕立て上げ、そう錯覚させている原因である。

今こそ自我を捨て、霊力を取り戻そうではないか。最初は身体やメンタルなど、自身に活用し、存在する不調や不具合に応用可能なことを見い出すべきである。いま書きながら別の言葉が浮かんできたが、これは神通力と呼ばれるものである。世の中の定義を調べてみると、検索ではこう出てきた。

神通力(じんつうりき)とは、仏教に由来する超自然的な特別な能力の総称で、悟りを開いた者や修行者が持つとされる、思い通りに物事を成し遂げる不思議な力のことです。

まず、「超自然的」とは、科学や人間が今のところ認識できないだけであり、それは純粋に「自然」である。また、「悟りを開いた者や修行者が持つ」わけではなく、もともと存在しているものである。必要なのは、そこへの通路つまり秘教やヴェーダーンタ哲学の言う「アンターカラナ」であり、それを介して連結し調和することができる。だから「特別な能力」でもなければ、「特別な者」だけの力でもない。また、「思い通りに物事を成し遂げる」とはいえ、この力と通じる者の条件は、諸体の純粋さと結果としての人格的な純粋さであり、力を個人的な利益拡大のために使用したり、直接的にも間接的にも他者への害悪が伴う事柄に使用したりしない者のみが見い出すものである。言い換えると、どうして乱れた波動に生きる者が乱れる前のの純粋な波動を見つけられるだろうか。それは、騒音と静寂という相反するものは共存できないが、いかなる騒音の背後にも常に静寂が横たわっているのに似ている。

しかし、極端に考えることは避けねばならない。「私はまだ純粋ではないから無理だ」という言い訳に逃げることで自我は安心したがる。この力は得ようとして得るものではなく、正しい生き方、正しい瞑想の必然的な結果であり、このような能力は、冒頭でジュワル・クールが言ったように、いずれは「学ばなければならない」ものであり、言い換えると、本物の力と偽物の力、あるいは自然な力と歪んだ力を識別できるようにならねばならないものである。だから私は、瞑想しようと誘っている。その気がある人だけに。多くの人が続かなくてやらなくなるが、続く人には、間違った方向にいかないよう、考え違いをしないよう、基本事項を知識として提供したいと願っている。再び引用をすると、

人々は通常、これらのパワーの犠牲者であって使用者ではない。自分が随意に引き寄せることのできるエネルギーがどれだけ途方もないものであるかを認識している人はほとんどいない。

この力をみなが使えたらなぁと思う。みなが神の力と調和したらなぁと思う。すると自身の内部で調和が達成されると共に、人類にも平和が訪れ、地球は素晴らしいものになる。人類から批判はなくなり、理解に変わる。殺し合いはなくなり、助け合いに変わる。分離意識はなくなり、比較競争は無用になり、価値ある者と価値なき者は存在しなくなり、すべてが一体性のうちに至福と平和を達成し、地球は愛を体現する惑星になる。攻撃する者も防衛する者もいなくなり、はじめて「武器よさらば」と言えるようになり、国境も人種も存在しなくなり、唯一なる生命の無数の表現が神の目的の途上で一時的に存在するだけであることが知られ、見た目上のものではなく、その背後の実在つまりこの世で例えれば生命としか言いようのない、本当に存在し生きているもの、いまこの我々を可能にしているもの、最初の原因であり最後の表現にも宿るもの、これに気づけるよう、波動的に今日も我々はおのれを磨くことだろう。それは主に、無私の瞑想と無私の奉仕つまり愛によって可能になるものである。

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