ラマナ・マハルシであれニサルガダッタ・マハラジであれ、その本の中身は対話の書き写しである。それを「編者」が、様々な項目別に分けて、整理したものである。また、数多の対話の中から抜き取られた箇所は、編者の興味や関心、そして納得と理解の限界に依存している。「編者」が介在するとき、その本は「編者」流になる。偏るし、しばしば誤る。例えば、対話の前に説明文を自身の言葉で差し挟むとき、間違って解釈しているものが掲載され、初心者はそれを見て間違って覚えてしまう。誰も、自身がまだ知らないものを扱えはしない。扱う場合は推測になる。ゆえに、聖者の書物を読むときは、この点を覚えておくべきである。参考になるよう、以下で考えていこう。
ラマナ・マハルシは真我探求の初心者に対して、内なる「私」という感覚に注意を払い、できるかぎり長い間それを保つように勧めている。もし注意が他の想念によって逸らされたときは、それに気づき、「私」という想念への自覚へとって返さなければならないと忠告している。彼はこの過程を助けるために、「私は誰か」や「この私という想念はどこから起こるのか」と自分に尋ねるといった様々な方法を提案した。しかし最終的な助けとなるのは、身体と心のすべてに対する責任をもつと装っている「私」に絶えず気づいていることである。
ラマナ・マハルシ「あるがままに」p.99
マハルシは「内なる私(真我)」に注意を払うよう言ったが、編者は、もし雑念があるようなときは、「私という想念」に意識を引き戻すようマハルシが忠告したと次に言う。マハルシは真我に注意を引き戻すように言ったのであり、私という想念や感覚つまり自我に引き戻すよう言ったわけではない。
また、「最終的な助けとなるのは、身体と心のすべてに対する責任をもつと装っている『私』に絶えず気づいていること」と編者は言うが、責任感覚のある「私」とは自我である。自我の私に気づき続けて何になるだろうか。事実で書き直すなら、最終的な助けとなるのは、身体と心のすべてに対する責任をもつと装っている「私」ではなく、その背後で観照する真我である「私」の方に意識を向け直しなさい、である。そして、これは初心者にはできないことである。
初期段階における「私」に注意を払うという訓練は、想念や知覚を通してのひとつの精神的活動にすぎない。訓練が進展するにしたがって、「私」という想念は主観的に体験された「私」という感覚にとって代わっていく。そしてこの感覚が想念や対象物との接触や同一化をやめたとき、それは完全に消え去る。あとに残るのは、個人としての感覚が一時的に作用を止めた、存在の体験である。体験は初めのうち断続的であるかもしれない。しかし、訓練を繰り返すことによって、それはより容易に達せられ、維持できるようになる。
真我を見い出すために、「自我の私」に注意を向けても何も起こらない。これはやってみれば誰でも分かる。それは編者が言うように、永遠に「精神的活動」である。しかし、訓練の進展と共に、「私」という想念は主観的に体験された「私」という感覚にとって代わると書いてあるが、言い換えれば、自我の私に留意し続けることで、真我が顕現し始めると言っているのである。こういうことはない。「精神的活動」は、どこにも到達しないという結論と共に苦痛へ導くだけである。ブラヴァツキーのように到達した者ならば次のように言う。
条件づけられた存在から自分自身を解放することが、人間には全く不可能であることを早く悟らせるという意味において行為(精神的活動)は役に立つ。
「実践的オカルティズム 」p.37
精神の領域内に真我はない。「主観的に体験された私」つまり真我が最初に理解されねばならないのである。普通の説明とは逆に思えるだろうが、考えてもみてほしい。真我の探求者とは自我である。彼らは「私は誰か」など自我の精神的活動を何年も行い、失敗するのである。この失敗者は何千万人にものぼるかもしれない。圧倒的にみな失敗し続けていることがなぜ見逃されているのだろうか。ラマナ・マハルシという権威が言っていると考えるからである。しかしマハルシの本意や真意は、沈黙つまり真我の方の私へ注目を向け直すというものである。これはいかなる訓練や方法によっても達成できない。領域や次元が違うのだから。精神的領域で行われるいかなる訓練も精神的領域止まりである。
そこで思った。本当にマハルシは自我の私に注意を向けるように言ったのかと。言ったから編者はそれをなぞったのではないかと。すると「ラマナ・マハルシの名言集」から以下の言葉を見つけた。
「私」という想念を心に保ちなさい。そしてそれが何なのかを見出すために問いただしなさい。この問いがあなたの注意を強引に引きとどめるようになったとき、他には何も考えることができなくなるのだ。
ラマナ・マハルシ「あるがままに」 p.102
どうやら言っているし、「精神的活動」を奨励している。となると、ここまで書いてきた私は焦らされているのであろうか。それとも、「ラマナ・マハルシの名言集」ではなく、「失言集」とみなすべきであろうか。しかし次はこう言っている。
あなたがしなければならないことは、真我でない他のものごとに注意を払うのをやめることだけだ。
「私」という想念は、明らかに「真我でない他のものごと」に属する。「私」という想念が何なのかを見い出すために問いただせと前でマハルシは言っているが、初心者が行うとき、それは精神的活動であり、マハルシが真我探求とは無関係と断言した「哲学」と同じ種類のものになる。マインドの活動で真我は顕現しない。マインドの活動を静止させるもの、彼の言葉で言えば、内へと「強引に引きとどめる」存在が顕現したとき、「他には何も考えることができなくなる」。マインドの活動が止んだとき、つまり止めさせる力が顕れたとき、自我は真に従うべき本流を知る。この力は瞑想で現れる。どのような瞑想か。私はただ静かに在ることを言い続けてきたが、「あるがままに」を読んでいると、私から出てきた話とほぼ同一のことが語られている箇所があった。
あなたの務めはただ在ることであり、あれやこれとして在ることではない。「私は私であるものである」( I AM THAT I AM)という言葉がすべての真理の要諦である。その方法は、「静かに在ること」に尽きる。では静寂とは何を意味するのだろうか? それはあなた自身を打ち壊すことを意味する。なぜならすべての名前と形が苦しみの原因だからだ。「私はこれである」という観念を放棄しなさい。真我を実現するために必要なのは、静かに在ることだけである。それ以上簡単なことがあるだろうか?
「あるがままに」p.123
これなら事実である。そして、「静かに在ること」は方法ではない。方法の場合、「静かに在ろうとすること」という努力になるだろう。つまり精神的活動である。マハルシは、静寂とは「あなた自身を打ち壊すことを意味する」と言っているが、打ち壊すのは真我である。普通の探求者は次のように思っている。「私は誰か」という想念に留意し続けることで自我が打ち壊されると。これを信じて何年あるいは何十年と無駄にするであろうか。もしそのような気力があったとしても、最終的には完全な絶望に打ちひしがれるだろう。それはそれで自殺さえしなければ得がたい教訓になる。
672夜を書いている者は、「私は誰か」をやってきた体験がある。無邪気にそのまま信じて。しかし結論は、クリシュナムルティの言っていることの方がここでは事実であった。
あなたは自我を解放できない。あなた自身がこの不幸の根源である以上、「自我」を滅する「方法」を求めていては、ほかならぬ自我の滅却過程であなたは別の「自我」を作り上げてしまうであろう。
「クリシュナムルティの瞑想録 」p.47
昨日も言ったように、実際に事実であったのは、「道を辿れるようになる前に、道そのものにならなければならない」ということである。簡単に言い直すと、自我は、最初に真我つまり魂を見い出す必要があるというものである。そして魂は、マインドや精神的活動の背後に存在しているもの、ただの純粋意識である。それは意識というよりも、純粋存在である。純粋な視覚であり、ただの観照者である。ブラヴァツキーは「目撃者」と言った。
ラマナ・マハルシの本の編者は、「主観的に体験された『私』という感覚」と書いているが、それは決して体験ではない。体験とは、その後にマインドを介して語るときに使われる用語である。真我は体験されない。体験したと言うのは、その後のパーソナリティーである。存在は体験ではない。人間は体験や経験という精神の領域に居住しているが、魂や真我は経験の領域には存在しない。言い換えると、真我はマインドが静かになったときに知られるものである。マインドの活動中は、時間意識があり、記憶という想念があり、過去の体験や経験がある。魂や真我は、しかし永遠なる現在である。我々は考えるが、そこでは何も考えるということは起きない。存在は思考の埒外にある。真我はマインドの埒外にある。であるならば、マインドの騒々しさだけが問題なのであって、静かであることが最も自我に対しては有効なのではないか。
瞑想してはならない――在りなさい!
あなたは在ると考えてはならない――在りなさい!在ることについて考えてはならない――あなたは在る!
ラマナ・マハルシ「あるがままに」p.101
これが事実である。これを引用した「編者」は、引用前に衝撃的なことを言っている。
究極的には、真我は何かをすることの結果として発見されるのではなく、ただ在ることによってのみ見出されるのである。
「あるがままに」p.101
これは、冒頭で言っていたことと違うではないか。つまり101ページまで本を読んできた初心者はこの矛盾にどう耐えればよいのか。「私は在る」とか、「私という想念」に留意してきた訓練者たちは、ここで全否定される。しかも、「ただ在ること」は精神的行為ではないのである。これは、体験してきた者でない者が説明するからこういうことになるのだと私は思う。編者を責めているわけではない。むしろ彼は世界中に貢献しただろう。しかし彼は自我であるゆえ、限界がある。絡まった糸を解きほぐすように、マハルシの言葉と言葉を丁寧につなぎ合わせていき、他人の言葉を借りて要約文を書こうとするとき、矛盾と限界が露呈される。こうして読み手の真我探求は神秘へと追いやられ、謎多きもの、難解なもの、我々には及ばないものとして下から見上げられ、発達した者と発達していない私、理解できる者がいる一方で理解できなかった私、という結論へ導かれ、挫折して道を去っていくしかなくなる。
マハルシは、様々な質問に答え、それを書き取った者が膨大な量で紹介し、きわめてシンプルであるものを難解にさせてしまった。これは誰かが悪いわけではなく、そういうものである。なぜ、初心者には謎多きもの、理解し難きものになるのかは、「アンターカラナ」という概念で昨日も説明した。通路が築かれていないうちは、肉体脳の意識ではそれを知覚できないのである。我々に知覚できないのがその証明である。だから、生命という真の根源にあっては、いかなる段階も差異も違いもありはしないが、その反映であるパーソナリティー意識においては、進化段階が存在し、つまり霊的理解の段階や、霊的メカニズムの構築具合の段階が存在することを一時的に認めて、段階に応じた教え方をすべきである。いつも言うように、第一段階のイニシエートが第三段階のイニシエートの真似をすること自体に無理があるのである。私自身がこのような道を通ってきたゆえに、何も分からなかった時期のことや、全くもって自我意識しか分からなかったときの苦しみを体験してきており、だから実際の話をすることができる。これによって、迷い続けている人の迷いを一つでも多く消し去ることを望む。また、苦しみのない道、苦しむ必要のない道を知ってもらいたいと願うがゆえに、まだ書き続けている。
これは前も書いた。古い映画を見ていると、男と女が寺か神社か分からないが歩いている。すると女が言う。「ここは静かで落ち着きますわ。きっとこんな場所も東京では少なくなっていくのでしょうね」と。このシングルマザーは、次には息子のことを思い出し、「そろそろ帰りますわ」となる。真我を見出しかけていたのに、錯覚のこの世を現実として生きているゆえ、執着している方へと引き戻されるのである。なんと残念なことか。「静かで落ち着く」という心地よさのままでいればよかったのに。そこには何の動機も目的もない。ただ静かであることが落ち着くし心地良いのである。この感覚の向こうに真我が在る。「私という想念」に留意するのではなく、静かで心地よいという感覚に留意することが、真の真我探求である。それはただ在ることである。ただ在る美しさ、喜ばしさ、心地よさ、これらにずっと留まりたいから留まるのである。「静かで落ち着く」ことが心地良いことまで分かったなら、その落ち着く感覚と共にずっといられれば最高ではないだろうか。それが高次の世界への扉になるのである。しかし、扉とするために静けさを利用する者には扉にならないだろう。目的が違うのだから。静けさとは何か。なぜ静かであることが落ち着くのか。そして心地良いのか。その感覚と共にただ在ることである。その動機は、静寂が好きだからである。静寂自体が目的である。これが、我自体、すなわち真我へと導く最高の方法つまり在り方である。静けさとは存在の状態であって、「探求」ではない。
