アートマ・ヴィチャーラ

「私は誰か」という問いが出るのはなぜか。真我を発見するため、という個人的な動機で問われるものではない。最終的な超越を妨げているのは「私」である。肉体がどの場所に行こうとも「私」は在る。この「私」から逃げられた者はおらず、夢のない睡眠中や失神中、昏睡状態といった無意識と呼ばれる状態のときだけ逃れられており、また自由である。我々の場合は、目覚めた意識でありながら、つまり「私」としての意識がありながら、その「私」から自由である意識や状態を達成しようとしている。通常の動機は、「私」の動機であるため、それは「私」の領域すなわち三界の超越には導かない。瞑想していて、深い意識に入ったとしても、まだそれを認識している「私」がいるのではないか。その見ている私、認識している私とは誰か。いまもこうして、文章を見ている私とは誰か。起きている間ずっとついてまわる私とは誰か。これは全く考えることではない。感覚的に存在する主観的な私に目を向き直すことにほかならない。

それは、「私として在る」ということである。パーソナリティーができることは、理解と上からの力によって内なる自己自身への集中が始まったとき、別の想念へとさまよい出す癖をそのつど認識し、元の「私自身」に意識を引き戻し、起きている集中を妨げないようにすることである。これが、瞑想のある段階における「魂とパーソナリティーの一致団結した努力」である。

専門的に言えば、弟子の道において、三つの様相を持つパーソナリティーとモナドと、その三つの様相の間のこの架け橋がアンターカラナと呼ばれる。このアンターカラナは、架け橋を生み出そうと共に意識的に働く魂とパーソナリティーの一致団結した努力の産物である。それが完成したとき、モナドとその物質界での表現である外界にいるイニシエートとの間に完全なる連結が生まれる。第三イニシエーションはこの過程の完成を印すものであり、そのときモナドと低位の個人的な自我との間を結ぶ真っ直ぐな線が生じるようになる。

アリス・ベイリー「光線とイニシエーション下」p.45

この引用は、ラマナ・マハルシの真意をやや学術的に、やや具体的に言い表したものであり、実際の真我探求(ヴィチャーラ)の姿、そしてその結果であるところのものが示されている。さらに別の表現を見てみよう。

アンターカラナの構築は、本質的に、統合され聖別されたパーソナリティーによる活動である。秘教徒は次の立場をとってはならない。つまり、自分たちが行わなければならないことは、魂との接触がある程度達成された後に自動的に起こる魂による活動をただ消極的に待ち、その結果、やがてアンターカラナの構築活動は、パーソナリティーとトリアッドの両方から反応を喚起するだろうという立場である。このようなものではない。アンターカラナの構築という仕事は主として、魂に助けられたパーソナリティーの活動である。これがやがてトリアッドから反応を喚起する。この時期、熱誠家はあまりにも怠惰な態度を示している。

光線とイニシエーション下」p.64

この文章だけで、我々が辿っている道には確実に先人がいたことが理解できるであろう。その状態をくぐり抜けた者でなければ書けない文章、知りえない話を丁寧に選別された言葉で知的に書かかれていることが理解されるであろう。これらの引用と「ヴィチャーラ」と呼ばれる概念は同じものである。ただし、秘教的な文章がいつもそうであるように、分かる人にしか分からないように書かれてある。したがって分解した説明が必要であろう。

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アンターカラナの構築は、統合され聖別されたパーソナリティーによる活動

「統合され聖別されたパーソナリティー」とは、魂に整列したパーソナリティーのことである。そのとき、肉体・アストラル体・メンタル体は統合された一つのパーソナリティーとして、完全に魂の瞑想に参加しており、したがって魂に従い一致している。このとき、マインドがまだ「生きている」ため、想念がときどき出る。鍛えられていないマインドである場合、都度、その想念に誘拐され、メンタル体とアストラル体の欲求がその想念と空想の物語によって満たされる。ここで重要な指針を述べる。

  1. 想念が出たとき、それを認識することが第一歩である。
  2. 次に魂のエネルギーを「感覚的目印」にして、メンタル体そのものに意識を向け直す。
  3. メンタル体は、想念が出てくる源である。ここに魂のエネルギーを固定させ、真の光の燃焼が妨げられないよう、集中を維持させることがパーソナリティーの仕事である。それは、DKが別の箇所で使用した比喩を借りるならば、レンズを通して太陽光を一点に集中させることで燃焼を引き起こすようなものである。
  4. このようにしてメンタル体は静かになり、想念は出なくなる傾向へと変質する。しかし、その変質に気づいている「私」がまだ存在している可能性がある。このとき初めて、「この見ている私は誰か」という直接的な問いを発することが可能になる。これは、メンタル体が比較的静かになった後に露わになる自己であるが、行われることはまだ同じであり、光の燃焼のために魂のエネルギーと共に我というその一点に集中された状態から逸脱させないことである。

以上は、アンターカラナの後半を建築する際の基本的な過程である。DKの本にもこのような具体的な描写はないだろう。方法論のように見えるものを書くのであれば、私の場合はこのようになる(実際は方法ではなく融合である)。それは「統合され聖別されたパーソナリティーによる活動」であるが、そのパーソナリティーの活動を可能にさせているのは魂である。よって、個我の認識の観点からすれば、

アンターカラナの構築は、魂に助けられたパーソナリティーの活動である

方向性を教えるのは魂である。聖人の書物ではない。よって理論ではない。魂のエネルギーを、それが出てきた源、意識の中心としての魂に集中させる過程、霊つまり真我へと突き抜けさせるためのこの集中の過程が、本来の瞑想である。これは、アストラル体が統御されている第二段階のイニシエートが行うものであり、それ以前にはできないか、少なくとも首尾よくできることはない。それはアストラル的騒音のためである。しばしば我々は、あまり考えることなく「雑念」と一括りに言うが、「雑念」の内実(その付着物も含めた総体)がメンタル質料とアストラル質料の入り混じったカーマ・マナス的なものであり、その構成比率として通常の人間に近づけば近づくほど、アストラル的要素が圧倒多数を占めるものであることを忘れてはならない。第三イニシエーションを目指す段階の弟子が扱う「雑念」は、アストラル要素が排除された、純粋なメンタル・フォースである。第二イニシエーションを受けるまでは、アストラル・フォースを同じように魂に助けられたパーソナリティーとして実行し、低位我の情緒感覚から自由な領域に意識を解放させることが目標である。この領域に入れるようになると、進歩は急速化し、魂の光が個人を導くようになるため、苦しみのない探求、喜び溢れる平和で自然な探求が可能になる。ラマナ・マハルシの言葉で言えば、「集中は努力ではなく楽しみになる」。なぜなら、本物に固定されているときだけ、この世のすべての苦痛や不快から隔絶された、真の幸せを感じることができるからである。


ここまでの文章を読みこなすならば、世の中で考えられている瞑想の「集中」と、魂に助けられた自然な「集中」との違いが明確になるはずである。前者はただ自我が自我の動機から行う苦痛に満ちた到達することのない努力である。後者は、自我が真我に融合することで自然の流れに入った存在の状態を維持させるだけの努力なき美しき集中である。この違いを理解するならば、初心者にいきなり出来るものではないことが分かるだろう。私は初心者だった。だから初心者を除け者にするために言っているわけではない。間違った努力を識別できるようになってもらいたいから言っている。それができないならば、一生を無駄にしかねない。上級者にはそれなりの理由がある。その最たる理由は、アンターカラナの前半を構築し終えており、パーソナリティーと魂が連結し、個人の意識が魂を目覚めた状態で常に認識している非アストラル的なメンタル状態であるというものである。これは実際は上級者ではないが、低位我からすれば高位であり上級な状態である。

アンターカラナの前半がメンタル質料を使って建設されるのに対して、もう半分はヴィジョンの科学と呼ばれている通り、光の質料を使って建設される。

新しい時代の教育 p.154

今回の話は、アンターカラナの後半、つまり光の質料を使用する真の瞑想つまり集中について語ったものである。したがって、これは「集中しようという苦痛に満ちた努力」を行う自我の行為とは関係がないことが理解されたならば、そのような危険に導くだけの瞑想をしている人はそれをやめてください。それは物質的脳細胞を損傷させるだけである。真の集中にはいかなる苦痛も伴わず、むしろ最高レベルの心地よさを伴うものである。これを覚えておき、苦痛が感じられるときは常に間違ったことをしていることを理解すべきである。これは、エネルギー的な間違いであり、存在的な在り方の間違いである。自我は行為するが、真我はただ在る。この違いが分からないことに起因する無意味な努力を、世の中ではまだ瞑想だと思われている。

ここまで読んで最も疑問になりうるのは、魂と個人を繋ぐ「アンターカラナの前半がメンタル質料を使って建設される」という点であるかもしれない。我々は自我意識であり、魂を認識していない。アンターカラナの前半を建設していない。ならばどのようにして、その「メンタル質料」を使って前半の橋を完成させればよいのかと。

このような疑問の背後には焦燥感や不安感といったものがある。つまりアストラル的な疑問だということに気づくであろうか。情緒感覚のようなアストラル・フォースを知的に扱えるよう努めることが、結果的に正しい「メンタル質料」の使用へ導くものである。今言った焦燥、不安、さらには恐怖、性急、到達したいという欲求など、すべて自我のアストラル的活動である。これらを知的に、つまり巻き込まれることのない聖別された知性の位置から認識できるようにならねばならない。この段階を助けるのは主に知識であり、例えば聖者の書物である。クリシュナムルティの本はこの段階を明確に助けるだろう。「ホワイトマジック」や「魂の光」といった初心者向けに書かれたベイリーの著書の部分的な箇所もこの段階を助ける。あるいは、自分が上級者だと思っている自我のグラマーを打ち砕くことにも役立つ。DKは、自身の本を読んでいる時点で初心者であるという認識を随所で植え付けようとしていた。なぜなら、彼の本を読む者はこの世では基本的に有能であり、他の者とは著しく違うというプライドに毒されているからである。それを彼は、「分離という大いなる異端」と呼んだ。したがって「謙虚」とは、単なる美徳や道徳的美点ではなく、自我の影響を受けにくくするための霊的テクニックであるとともに、何が非霊的であるかという洞察へと光を投げかける優れた態度なのである。

ここまで書いた時点での感想つまり「感覚」をあえて言おう。そろそろ記事を締めるべきだという理性に対する魂の否定である。これ以上なにを翻訳しろというのだろうか。

理解したので書くと、今回扱った内容には根本的な欠陥がある。それは説明するために避けられないものではあるが、一つであるものを分割して書いたという欠陥である。この欠陥を知識としておのがうちに保存している以上、決して真の平和はない。例えば、魂とパーソナリティーを分割して書いた。それは特質的には異なるものであろう。自我と真我、物質と霊、質料と質料に内在する光、このように表現的特質で分けて説明するときに使用するのが言葉だが、実際は全部「私」なのである。ここでいう「私」とは真我である。これを言わずに文章を終えようとしたとき、魂はいわば自らの釈然としない態度を書いている媒体に見せた。この説明も分割的である。しかし、我々が到達することになる意識においては、すべてが私である。我が内にすべておさまる。「ドングリの実の中に樫の木が含まれ」るようになる。あらゆる結果が、唯一なる原因に引き戻され還されるようになる。これこそが真の平和である。そして我々の神が目指しているものもまた、真の意味での平和である。人間のマインドを超越し、神のマインドに入れるようになったとき、少しずつ生命の目的が明かされるであろう。人生ではなく神生の意味と意義を理解し、行為からは撤退し、存在するようになるだろう。それは、存在することで破壊し、破壊することで新生するという、神の計画に関するものである。

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