断食が瞑想に効果的かという質問について。率直に答えれば効果的である。しかし、瞑想の効果を高めるために断食するという動機は、何やら元気である。瞑想の効果を高めたい人は誰なのか。その人が元気なときの発想に違いない。つまりきな臭い。肉体エレメンタルに支配されていない場合、肉体をサットヴァに保つことは自然なことであり、心地よいことである。逆に、暴飲暴食もしくは過食や豊食に生きながら、サットヴァ意識を保つことは無理だろう。人類は、ほとんど食べる必要がないことをまだ知らない。食が生の楽しみの一つになっている。それは霊的楽しみを知らないからである。
前にも答えたことがあるが、ほとんどの空腹は習慣によるものか、精神的に満たされないときの充足の代用であるか、アストラル性質をより助長するためのものであるか、根本的なことを言えば霊的飢餓の肉体的現れである。霊的に生きるとは、諸体のエレメンタルには生きないということである。肉体を満足させること、アストラル体を満足させること、メンタル体を満足させること、これらを要求してくる各々のエレメンタルを主とするのではなく、魂や霊を主として生きることである。その意味で、肉体エレメンタルの要求から自由な者の特徴である少食(活動を可能にさせるだけの最低限の食事)は、肉体に仕えない者の自然体であり、これが習慣になるならば、相応する霊的顕現の恩恵を感じるようにもなり、さらに瞑想を通じた魂との交流により、肉体の空腹が感じられることは減り、「人はパンのみにて生くるものにあらず」という言葉の真意自体に生きるようになるだろう。すると、宗教的に強いられた義務からでもなく、個人的意図からでもない、少食や定期的断食というものが普通になるだろう。
ゆえに、断食に霊的効果があることは部分的に事実ではあるが、その元気な動機、それを行いたい元気な自我、行為の源に目を向けることの方が遥かに本質的である。自我の寿命が尽きるまでは、何らかの行為や経験を欲しがり続けるものである。だから否定はしないが、自我が静かに落ち着き始めるならば、食事をするということは人生の主な楽しみではなくなり、関心の対象からは外れゆくだろう。
断食とは、暴食の対義ではなく、忘食の同義である。命に生きていてお腹が空くだろうか。お腹が空くのは肉体であり、そう錯覚するのは精神である。現代の先進国は行き過ぎた豊食であり、これは霊的な勢力とは逆の勢力における意図的に作られた潮流である。食べ過ぎることで、霊性を忘れさせるのである。肉体という物質の欲求を過度に高めることが、進化の対極を崇める勢力(我々の諸体のエレメンタルも知的ではないにせよその一部である)の現代的な常套手段である。しかし、食べ過ぎると病気になる。食べすぎた後にはいつも苦しくなり、後悔する。何であれ、低位のものを満たした後には代償がつきまとうものである。そうでなければ経験は学びにはならない。しかし、食べることの楽しみをやめられないという中毒と悪循環に我々は陥っている。これはすべて、物質の対極である霊を知らないがゆえに起きていることである。
なぜ断食したいのか。これらの経験を積んで、食べ過ぎで健康を害したからなのか。しかし、治ったらまた食べだすだろう。欲望自体には対処できていないからである。肉体の欲望があり、情緒的な欲望があり、メンタル的な欲望がある。それらの欲望の本質とは何かを見るまで、確実に条件づけられるのではないだろうか。欲望とは、満たされぬ感覚を満たすために、何らかの方向へと自らを強いる力に屈することである。その力を見たらどうだろうか、と提案しているのである。諸体各々のフォースである。これを統御できるのは魂だけである。だから我々にとって本質的であるのは、食欲も含めた三界の煩悩から自由でありうるために、魂と融合することだけである。少なくとも第三イニシエーションを受けるまでは。だから、断食自体が目的ではないのである。断食自体を目的にするのは自我であり、真我を知りさえすれば、現代の人類のように食が楽しみであることはなくなり、本物の楽しみが何であるのかを、常に味わっているという、真のグルメが達成されるだろう。ゆえに、真のグルメは常に断食的である。常に肉体的ではなく霊的である。「人はパンのみにて生くるものにあらず」。人類の課題は、何が真の食であるかを識別することである。何を食べ、何を取り入れ、何を味わい、何によって肉体が生かされるのか、この本質を見極めることだけである。これは霊的味覚と関係している。
ちなみに、我々の五感は、それぞれ我々の七つの界層と対応関係にあることを覚えておくと良いかもしれない。
| 界層 | 感覚 |
| 物質界 | 聴覚 |
| アストラル界 | 触覚 |
| メンタル界 | 視覚 |
| ブッディ界 | 味覚 |
| アートマ界 | 嗅覚 |
多くの瞑想者が高位メンタル界の視覚器官を発達させようとしているところである。平均的な魂は、その高位メンタル界に存在している。魂の目で見ることができるようになったとき、識別を通して、徐々に魂の界層に住まうことが可能になり、魂の界層がブッディ界のオーラ領域にあることを感じられるようになるだろう。これが、我々が最初に味わう霊的至福である。人間は美味しそうなものを想像するだけで唾が出る。肉体の味覚の多くが想像力に依存している。想像力の貧富は識別能力に依存している。識別能力の優劣は直観力に依存している。そしてブッディ界は直観界である。
何を我々は味わうべきであるかを、知的な想像力を通して識別し、魂を解し、また介することによって真の識別を可能とする直観へと到達し、自分が何者であるかを霊的に理解するようになることが味覚の目的であり完成である。したがって、ただ瞑想の効果を求めて断食するのでもなく、ただ断食を目的とするのでもなく、断食の意味と意義を考え、断食や少食が個人的な意図によるものではなく、高位の満腹による副次的な結果にすぎないことを知り、最初から本質的に満たしうるもの、永遠に満たされているものを求めるべきである。この意味で、ある段階で断食は助けになるが、真の霊的探求においては重要なものではなく、むしろ重要なものを知ることによって、つまり真に満たされることによって、肉体の偽の空腹は減少し、あまり食べずともよくなり、断食という概念はなくなるだろう。何が食であり、何が糧であるかを、そのときは味わっているであろう。だからいつも言うように、人間の考え方は逆転しており、何かで道を辿ろうとする前に、道そのものを知るべきなのである。
