何に苦しんでいたのかと言われた。何で生きなければならないのか分からないことに苦しんでいたのである。生まれてしばらくすると、誰もが死という概念に出会う。恐ろしい概念である。父親に、死ねばどうなるかと聞くと、無になると答えられた。ならば、無になるのに生きて何の意味があるのか。無に帰するものに生きて何の意味があるのか。到底納得できない答えであるが、誰に聞いても、適当な答えしか返ってこない。驚くべきは、みな分からないのに、悩まされておらず、平然と生きていることであった。考えたって仕方ない、で済ましている。ただ生きることは、辛すぎる。すると別の人は、生まれてから死ぬまでに何を成すかだけが重要だと言ったが、その数年後には呆気なく死んだ。通夜でその者の死体を見たとき、金持ちで権勢を誇った者の末路がこの抜け殻かと思った。この者の所有物は、この者にとって無に帰した。だから、生きる理由が分からないのなら早々に死にたいが、自殺することもできず、意味不明のまま生きねばならないことが苦痛だった。
本当に理解したのは瞑想したからである。それまでの全苦痛から自由になった。分からなかったことを完全に理解した。それは一切に限定を受けない自己を知ったからである。真の一なる自己が在るだけだが、我々は分離した個々の形態を自分だと信じているため、すべきことがあると錯覚し、非常に苦痛である個人的な責任の感覚を抱えている。あれをしなさい、これをしなさい。私はそれらをすべきだ。――事実は、人々が自分と考えているものは実体として存在しておらず、したがって誰かの責任とか、誰かがすべきこととか、誰かが成すこととか、一つもない。錯覚の我で生きるならば、生活の上での責任を感じ、失敗すれば責められ、矮小や無能であることが悪とされ、延々と何かを成し遂げねばならず、ひたすらに苦痛である。しかし、この世の幸福などは、我々には不必要なものである。そんな子供騙しのような一過性のものでなぜ満足できるだろうか。錯覚の我が消え、真の我が顕現し、意識がそれを知るならば(I AM THAT)、肉体はこの世にあろうが、無関係に天国である。永遠に至福である。
錯覚の我で何かをしようとする限り、その自我を強化するだけであり、余計に真実は見えなくなる。だから実際的にも象徴的にも目を瞑るということは非常に美しい。天才的な発想である。誰もが外の世界で答えを求めているが、その世界から目を閉じるのである。そして外ではなく内を見渡す。内とは、我そのものである。存在そのもの、まさに生そのものである。
我々は、様々な役割を引き受けて何者かとしてこの世で役を演じているが、その目的は、自身を条件づけるものを通し、つまり物質的であるものを通し、取り囲む粗雑な質料的な物質と、実際はそれらから完全自由で制限なく際限もない真実なる我を識別し、低位の質料を意識的に高位に引き上げ、理解したうえで低位のものを救い、そのようにすることで真我へと帰ることだけである。だから、物質を通して霊に帰った者であれば、「霊的」とか「スピリチュアル」という意味を以下のものとしてはっきり理解するはずである。
神聖な衝動は宇宙の創造者から発せられるものであり、実際に何の抵抗にも会わずに空間の物質に影響を及ぼしたとき、それは法則になる。また、周期的に流れ出る神聖な衝動の中には、まだそのような強い波動を帯びていないため、質料の結合したものの波動に影響を及ぼすほど強力ではないものもある。私たちはこの後者の衝動に霊的という名前を与え、それが新時代の法則として確立されるようになるのを期待している。
アリス・ベイリー「ホワイトマジック下」p.238
法則という単語を使わずとも、それが意味するところのものを、霊的意識に入った者であれば、完璧に理解する。「空間の物質に影響を及ぼす」いかなる波動も発さない状態が、「I AM」である。これが霊的な存在の状態であり、この新しい法則に生きること、存在することが、新時代の生の目的である。偽の我に生きている者たちが知るべき真の生の目的である。この識別ができない理由は、専門的に言えば、真の我へと連結するための器官ないしはメカニズムであるアンターカラナが建設されていないためであるが、この概念を知らなくても、何が霊的に正しいことかを瞑想で理解することで、そしてその理解に従い生きることで、自動的にアンターカラナは首尾よく構築される。そして、霊的正しさは、この世の倫理や道徳とは無関係であり、また書物や他人から教わることのできる類いのものではなく、我みずからがそれで在ることによってしか理解できないものである。道を辿る前に道そのものでなければならない。
もし、一人でも尊敬できる者や、師と呼ぶべき者にこの世で出会っていたならば、私は達成できなかっただろう。この人は素晴らしいが、自分はまだ素晴らしくなく、その方の弟子である、などといった考え方に逃避していただろう。「準備ができたときに師が現れる」とか「弟子の準備が整えば、師は必ず現れる」という定型句は事実だが、師とは、我だったのである。偽の方の我ではなく、真我のことである。この実在だけが師である。これを私に理解させたのは当然ながら瞑想であり、魂である。魂が、何が霊的であり、何が霊つまり生命であるかを教えた。また、何が真理に反するものであるかを理解させた。このようにして、相反するもの、対立しているかに見えるものを、私は調和させたのである。
この平和を知らずして、我々の世界に平和が訪れることは不可能である。生命つまり平和を知らずして、どのような政治家も平和運動家も、一ミリも平和に近づけられない。法則を知らないのに、また法則自体でないのに、どうやったら平和にさせうるのか。甚だしい論理矛盾である。この世の平和を望むのならば、各々が平和を最初に知らねばならない。このようにしてのみ、外的な、つまり結果的な世界の平和は必然となる。我々が次に知るべき意識は以下のようなものである。
何が起こったとしても内なる静けさをかき乱されない境地に達することは可能である。そこでは人知を超える平和を知り、それを経験する。なぜなら、意識はそのとき魂に集中しているからである。魂とは平和そのものであり、ブッディ生命の範囲にある。そこでは、本当の落ち着きを知り、かつ感じることができ、平衡が行き渡っている。なぜなら、生命の中心が、本質的にバランスであるエゴの中にあるからである。そこでは、穏やかさが支配しており、波だったり揺れ動いたりすることはない。なぜなら、聖なる知る者が支配の手綱を握っており、低位我からの妨害を許さないからである。そこでは至福そのものに到達するが、それは三界の状況に基づいたものではなく、非自己とは全く別の存在――時間と空間とそれに含まれる全てのものがなくなったときにでも決してなくなることのない存在――についての内的な認識に基づく至福である。低位界層のあらゆるイリュージョンを経験し、それを経験し終え、それを変性し、超越したとき、人はこの存在を知る。人が努力を行う小さな世界が消え去って、無に帰したように見えたときでも、それはなおも生き続ける。それは「私はそれである(I AM THAT)」という知識に根ざしている。
イニシエーション p.113
私は、この境地に突然入れるようになったわけではない。気がついたらそれが当たり前の状態になっていたゆえ、非常に徐々に、少しずつ、この意識が染み渡っていったのだろう。そういうものだと思ってもらいたい。そして重要なのは、私が全く努力をしなかったという点である。全く何も頑張らなかった。ただ静かにしていただけである。つまり静寂の心地よさに浸っていただけである。一般的には瞑想という単語があるゆえ、私も瞑想と言っているが、その内容は、世間で教えられているものとは全く異なる。ニサルガダッタ・マハラジの以下の言葉はこの境地つまり意識状態に在る者の言葉である。
(「何をすればいいのか」という質問に対して):する? 何かをする? 絶対的に何もない。ただ一時的なものを一時的なものとして、現実ではないものを現実でないものとして、偽物を偽物として見れば、あなたは自分の本質を理解することだろう。
ニサルガダッタ・マハラジ「意識に先立って」p.33
「する」ということは「非霊的」である。だから瞑想は、全く行為ではない。うるさいよりも、静かにしていることの方が心地よいことが、ある程度の人には理解できるはずである。そこには何の難しさもない。静かにしようと「する」ならば、永遠に静けさに逆行するだろう。静寂とは状態もしくは在り様である。静けさが好きならば、より静かな状態に入っていくだろう。瞑想とは、「静けさの中の心地よさに好きで集中している存在状態」と定義できるだろう。これは方法だろうか。訓練や修行だろうか。苦痛を伴う努力だろうか。少しでも難しいことなのだろうか。もし新たに習得すべきようなものであれば、そのようなものには何の価値もない。最初から在るもの、永遠に在るもの、これを非霊的な「する」という行為の反対の静けさを通して理解するだけのことである。
これをおいて他に理解する価値のあるものはない。この理解以外に生きる目的はない。理解とは、偽物と本物の識別である。この識別は、本物が訪れたときだけ可能になるものである。経験から言えば、静かにしていることで、本物が訪れる。好んで静かにしていることで、つまりリラックスして静かな心地よさに憩っているだけで、本物が徐々に理解される。この本物を皆がはやく理解してほしい。そうすることで、完全に楽になってほしい。分離した個我での人生は、たった数十年とは言え、あまりにきつすぎる。もし真我を理解するならば、完全にそれまでの偽我からは自由である。いま自分と思っているものは至福のなかに消滅する。これが超越である。偽の意識が超越されることで、人は初めて平和が何であるかを知る。自由が何であるかを知る。救いが何であるかを知る。つまり神を知る。それは我である。
