誰かに害されたとき、通常は怒りや憎悪、許せないという感情に飲まれるが、魂を知り魂で在る人間の場合、そのような負の影響力から自由である理屈について説明したい。したがって今回は明確にアストラル界の話である。
私に害を為した者を仮にSだとしよう。Sという人間は、もし我々が魂の意識で在るならば、自分の中に存在する自分でしかない。世界についても同様で、昨日マハラジが言ったように「あなたが全宇宙の深遠な原因なのだ。すべてはあなたが在るがゆえに在る」もの、より厳密には、在るように見えたり感じたりするものであり、その錯覚のからくりに気づくまでだけ、現実と思われている領域である。よって、誰かに傷つけられるという現象に憎悪や敵意で反応するということは、以下の前提でまず躓いているからである。
- 形態の私や他人が存在するという錯覚。
- 全顕現が真我である私の中に見られる非実在・非現実であるという離れた意識つまり認識への未到達。言い換えると「孤立した統一」を知らないこと。
- 結果として力を持つ憎悪などの感情を、ただのフォースとして見れず、また扱えないこと。
1と2は第三イニシエーションを目指している弟子に要求される認識であり、3は第二イニシエーションまでに理解され応用できるようになるべきものである。つまり、感情や情緒を、特質を帯びた力、影響を及ぼし条件づけようと強いるフォースとして、それをハートで見ること、ハートで扱うこと、ハートで破壊すること、これらが可能であることを知るためには、まず魂のエネルギーの伝導体になっている必要がある。我々が自身の内に御しがたい感情を抱え、それに翻弄されそうになるとき、その翻弄しようとしてくる力(フォース)自体を見るならば、それはハートに在るはずである。ここで言うハートとは、肩甲骨の間のハート・センターではなく、位置的には、その反対方向つまり胸の中心の箇所である。だから人は「胸がモヤモヤする」と言う。我々は怒りとか、許せない感情とか、自身を害した者を害し返さねば気が済まない感情とか、それらに条件づけられるが、そのようなモヤモヤさせる力をハートにただ見るならば、それは即座に消え去ることを見い出すだろう。このとき何が起きているのであろうか。
「エネルギーは思考に従う」とはオカルトの決まり文句である。言い換えると、注目する場所にエネルギーが焦点化される。眉間の魂の座位から、肉体人間に悪を為すよう条件づけようとするフォースをハートに見るとき、魂のエネルギーがアストラル界のフォースに衝撃を与えているのである。結果、感情はなくなり、破壊され、残るのは変性された愛や喜びだけである。つまり実在ではないものに無知であるとき、我々肉体はその力なき力に動かされるのである。このエネルギーの科学の応用に成功した読者が以前にメールしてくれた内容を再び引用する。
以前は数年前の己が別人と感じていたことが、今では数ヶ月前の己とは全く別の反応(現在の受け止め方)をしていることにふと気付くこともあります。内心驚いたことは「魂の視線を向けると破壊される」と記事にありましたが、その場でやってみると本当に即座に己がうちにあった負の情緒が破壊されたことです。その後、あらゆるアストラルに対しても応用可能であることを経験しました。
今日はクリスマスが嬉しい、楽しいと人は言うが、キリストが一番嬉しいのは、こういう便りである。兄弟姉妹の霊的前進と霊的成功である。この文章で特に重要なのは、「あらゆるアストラルに対しても応用可能」だったという点である。これをみなさん実践してみてください。オカルティズムが目に見えない世界の現実的な科学であることを理解するはずである。魂のエネルギーを、「視線」つまりただ見ることで対象へ向けたとき、我々は何もしていない。我々がするのではない。パーソナリティーは、見ることを通して、エネルギーを方向づけただけであり、破壊したのは魂のエネルギーである。我々の意識は、ただそれを観照し、目撃しているだけである。このとき、我々はもはや純粋なパーソナリティー意識ではなく、魂と融合しだした意識である。この意識が拡大するにつれて、個人感覚の喪失も拡大し、人間のあらゆる情緒は、神の生命の至福に置き換えられるようになる。
知覚者が敵意と憎悪を感じたとすれば、それは彼の中にも敵意と憎悪の種子が存在するからである。それがなければ、和合と調和しか存在しない。これは普遍的な愛の最初の段階であり、すべての存在と一つになろうとする熱誠家の実際の努力である。まずは自分自身に着手し、自身の性質の中にある有害さの種子を一掃するように努める。そのため、自分や他の人々への敵意を生む原因に対処するのである。その自然な結果として、彼は平安を感じ、他の人々との間にも平安が生まれる。彼の存在の前では野獣も無力になるが、熱誠家やヨギのマインドの状態によってそのようになるのである。
アリス・ベイリー「魂の光」p.203
「自分や他の人々への敵意を生む原因」とは何か。まず害されるという現象が起こる。害した者がSならば、Sは許せないというメンタル的な判断が総合的に下される。その判断は、主に恐怖に基づくものであり、グラマーやイリュージョンによって内的事情が見えなくなっているゆえである。「内的事情」とは、これらすべての現象が実際は我々の意識の中で繰り広げられている無統御なフォースによる劇場型の結果でしかないという事情である。外の世界を見て信じるならば、私やSがいるだろう。Sが私にひどいことをしたという事実もあるだろう。普通の人はこの外的世界とそのまま同一化しているため、波動的に、肉体が「仕返し」のような残念な行為へ衝動づけられがちだという、エネルギーの犠牲者の状態なのである。「自分や他の人々への敵意を生む原因」とは、一連の精神的連鎖に見られる無統御なフォースとの同一化のことである。Sを許せないという感情があるなら、その感情自体は何も悪くないことを知り、そのような感情がある自分も悪くないことを知り、「ただ」、それを見ることである。エネルギーとフォースの内的世界からのみ、我々の外的衝動や外的行為は統御できるのである。
小学校の道徳の教えはこうである。「敵意を持つ君が間違っているのだから、敵意を抱かないようにしなさい」。ただ押しつける。大人が通う協会か寺のような場所だともう少し洗練される。「敵意で悪を為すなら、相応の事象が跳ね返ってくるでしょう」と言い、やや理屈で訴えかけ、最後は恐怖を利用する。それが目的としていることは、人類全体の愛ではなく、個人の安全や快適を保つこと、個人的な快と幸福の追求である。そのようなものはない。真の「和合と調和」が在るのは個人が去ったときだけである。その平和が、我々に愛や至福を教え、それらが一元や一体という事実に由来することを理解させるのである。子供騙しの教えは、自我を変革させるよう自我に強要する。これは逆に言えば、非霊的なものの拡大と関係している。道徳もまた詭弁なのである。ここで言う道徳は、社会的規範としての最低限のルールではない。善悪を内面化させ、自己評価の軸とし、罪悪感と理想像とを往復させる、内的統治装置としての道徳のことである。この道徳は、人間を解放するためにあるのではなく、人間を管理し縛りつけるものである。なぜなら、「善くあろうとする私」という構造そのものを疑わせないからである。この私の背後に、つまり善くあろうとするパーソナリティーの背後に、最初から和合と至福は存在しているのである。視点の問題だが、視界を曇らせているのは我々の内的騒音である。だから、静かなときしかこれは分からない。
