たとえば、私が672夜で、自身で出来ないことを出来るように書いたり、実際は知らないことを知ったふりして書いたりするならば、少なくともその日のうちに、カルマ的な反作用が現象の世界で生じ、私を痛めつけることになるだろう、という話をある者にしたら、次のように言われた。あなたはそのときカルマに苦しむのかと。これが面白い質問だと感じたため取り上げる。
自分を大きく見せるために、出来ないことを出来ると喧伝するような者とは、個人である。この個人性の残り滓が、仮に私の翻訳を歪曲させた場合、その間違いを教えるための現象が個人に起きるだろう。しかもすぐに起きるだろう。ある程度の段階以上の者が、原因と結果を結びつけて研究しやすいのは、作用に対する反作用が生じるまでの「時間」が短いためである。犯した罪という言い方をするならば、その罪が大きいほど、個人には大きな苦しめる現象が学習の機会として与えられる。しかし、我々が個人意識でないならばどうなのか。
或る弟子が、自身が弟子などではないことを知り、その個人性を超越した意識を見出したとしよう。それは数分か数十分で通常は元の自我に戻される。この新しい意識を日々の瞑想で拡大するならば、自我に戻されても、いつでも高位の意識に入れるようになるだろう。やがて、高位の意識の方が通常の意識になり、個人的な装いで振る舞うのは、それまでの彼を知る者を無闇に恐れさせないためなど、必要性に応じた場合に限定されるだろう。問題は、この期間、個人や自我は完全に消し去られていないという点である。そのため間違いを犯す場合がある。すると当然、カルマ的な反作用が現象として彼に起こる。このとき、彼が苦しむか否かは、彼がどれだけ新しい意識を開拓しているかに依存している。一般的に言えば、開拓しているのだから、彼は苦しまないし、個人の不幸すなわち得難き教訓は、むしろ彼を解放しさらなる喜びへと導くだけである。
パーソナリティーの深い悲嘆と不幸の直中にあっても、魂の喜びを知り感じることができる。これは秘教のパラドクスであり、決まり文句である。しかしながら、それは事実である。学ぶ者はこれを目指さなければならない。
アリス・ベイリー「ホワイトマジック下」p.68
彼は不幸を通してカルマから必要なことを学ぶであろうが、必ずしも不幸の直中で苦しむ必要はないのである。これは、みなさんの生活の全局面にて応用可能であるため、ここまで書いたものである。個人の目的は幸福とその持続である。言い換えると、個人は不幸を恐れている。しかし、もし幸福や不幸が我々にとって何の関係もなくなるならば、どういうことになるであろうか。簡単に言うと、この世は楽勝になる。知恵に導かれて、そうなってもらいたいのである。
極端に話すと、人間は誰しも病気になるのに、彼だけは病気になっても勝手に癒えるか、かからなくなる。怪我をすると人は痛みを感じるが、彼女は感覚知覚を統御でき、痛みから自由である。家族が死んでみな泣いているときに、彼だけは至福である。みな生きるために嫌な仕事をしているが、彼女は人が百日かけて行う仕事を一日で終わらせるため、残りの九十九日は自由である。人は嫌な事が起きると苦しむが、彼には同じ事が起きても苦しむことはない。つまり、あらゆる災難からその者だけは逃れられているのである。これはひどく不公平に見える。ずるいように見える。
このからくりは、彼の場合、その「彼」がいないというものである。個人が放棄された後、残ったものの面倒を見るのは神だからである。彼の見た目はそれまで通り肉体だろうが、彼というものはそこにはすでに無く、個人性の媒体であった者が、神性の媒体に変性されて、彼を貫き彼に流れ込み彼を動かす原理になっているのは、アストラル体でもメンタル体でもなく、つまり個人的な感情でも想念でもなく、神性そのものになっているのである。これゆえに、人にはできないことができ、人には奇跡か奇術に見えることが可能になる。それは神がその純粋媒体を通して行っているのである。
別の言い方で説明したい。どの種類のエネルギーと関わっているかだけが違いを生み出している。「私は個人だ」という想念エネルギーと人間は関わっている。その結果、個人意識である。一時が万事、個人的なエネルギーと同一化しているのである。完全な自我意識のとき、自分が何かのエネルギーと関わっていることを知覚することすらできない。自分というものが、何か別のエネルギーによって動かされているものだという認識がない。こう考えると、個人に進化段階があるのではなく、エネルギーに進化段階があり、どの段階のエネルギーと主に自身が関係づけられているのか、という点だけが意識や能力の違いを生み出す原因だということに気づくだろう。言い換えると、神のエネルギーだけが入ってくるように自身を調整することだけが要点である。
次の問題は、人によってエネルギーの違いを識別する能力に差異があることである。では、最初に一番美味しい果物を食べたとしよう。次から食べる果物は、それに比べれば不味かったり、味が薄かったり、渋かったり、あるいは臭かったりして、どうしても最初の本物からすれば違うのである。だから、識別の基準となる最高のものを最初に知ることが、完全な識別の基本である。もし基準となる最高のエネルギーを最初に知るならば、それにそぐわないものは、まずいし、入れると苦しいし、何一ついいことがないため、捨てられるようになる。人々は頭で考えるため、概念で物事を把握するが、我々の場合は、エネルギーで把握しないといけないのである。神のエネルギーを最初に知れば、いま我々を動かしているエネルギーは、神のエネルギーが志向している方向性と逆なのである。美味しいスープを飲むためには、渋みやえぐみや臭みの元となる灰汁を取り除かねばならないように、純粋エネルギーからすれば雑味を伴うものは、自身の中から排除しなければならないのである。これを可能にさせるのが瞑想である。
我々の瞑想はエネルギーの科学である。神のエネルギーを歪曲させる灰汁を自身の内部で識別し、霊的には、取り除くということは破壊するということであり、それは昨日も書いたように内的な視覚的方向づけによって、自身が接触可能な範囲における神に由来する最高のエネルギーを、灰汁に、つまり悪に注ぐことで、打ちこわし、壊されたものの中から守られていた善を引き出すのである。形態とは、活用された後は壊される運命にある。肉体もそうである。我々の内部の様々な灰汁という形をとった形態もそうである。最初は灰汁に条件づけられてまずい目に遭うが、経験を積むと、危うきもの、良からぬもの、正しからざるものを区別できるようになり、雑味とは関わらないようになるものである。関わらないとき、注目を向けないとき、それらは死ぬのである。それらは形態を維持できず、破壊されるのである。なぜなら、養分を送る主がいないからである。
世の中の瞑想は、まだ科学的ではない。雑念を鎮めなさい、呼吸を整えなさい、何々しなさい、無数に何かをするよう命じられる。これは知的ではない。あまりにも自我的である。低位我しか知らぬゆえに、瞑想が低位我で行うものだと信じているのである。我々が低位我なのであって、また灰汁である。この灰汁を溶かし純粋化させるのは、高位我のエネルギーである。最初に基準を知らずして、どうやって霊的味覚(ブッディ)、霊的嗅覚(アートマ)は働きうるだろうか。灰汁だらけのスープを飲んでいるから苦しいのである。何が自身の内部の灰汁なのかを見分けないといけない。そして灰汁は取り除くこと、すなわち関わらぬことである。同一化せぬことである。見分けたのならば。飲む必要のないものを飲まないことである。そのためには、常に一番美味しい味を知っていることだけが重要である。つまり真我さえ分かれば、真我ではないすべては識別される。本物さえ理解すれば偽物には無関心になる。
ニサルガダッタ・マハラジは、「ただ一時的なものを一時的なものとして、現実ではないものを現実でないものとして、偽物を偽物として見れば、あなたは自分の本質を理解することだろう」と言っているが、書き取った人がミスしたのか、事実は逆である。自分の本質を理解した後に、何が一時的で、何が現実でなく、何が偽物なのかが分かる。それ以前は、理論による識別もしくは推論である。それは霊的世界に通用できない。我々のマインドでは通用しない。むしろマインドを静かにする本物が現れ、マインドが静かになったとき、真の美味を理解し、灰汁と悪を取り除くことが可能になるのである。
そして人は言う。どのようにして最初に本物が現れるのかと。スープと同じである。純粋で美味しいスープは最初から在るが、その上に灰汁が付着しているだけである。だからすでに現れている。灰汁の苦みに煩わされているだけである。これを自身の内部で応用することである。我々は何もする必要がないし、何かをする力そのものでもない。我々は瞑想し、静寂の中で、あるいは騒音の中で灰汁を知るだけでいい。普通の人は灰汁を放置し、苦い思いをしている。我々は放置されてきたものに目を見開くことである。理解するということは、それを理解できるだけの波動と一致したということである。このようにして、より高位の意識へと一致するようになる。こうして意識は拡大し、やがて本物すら理解するようになるだろう。灰汁だらけで隠れて見えなかったものを、灰汁が非実在であるゆえに、理解した瞬間に灰汁なきスープを存分に味わうだろう。そして、他のものはすべて不味くなるだろう。
