上と下の図解

図で説明する。通常の人間意識の場合、左下の三角のパーソナリティーしか認識していない。ここから瞑想が始まる。赤線がアンターカラナの前半である。瞑想はアンターカラナの科学であり、低位と高位を繋ぐものである。赤線が完成したとき、中央の図に移り、丸の中に三角が入る。つまり赤線が下から伸びるにつれて、パーソナリティーは魂を認識するようになり、最終的には融合する。必然的にこれは、最初に探求を始めたパーソナリティーは存在しなくなるという意味でもある。ここではもはや、個人的な自分という錯覚も感覚も無い。

したがって中央の図に移る。これに①を振ったが、①は丸の中にあり、魂を認識している状態である。これを「I AM THAT」と言う。魂が吹き込まれたパーソナリティーのことだが、依然として高位ではあるがパーソナリティー(と言うより敷居の住者)が存在する。このとき意識は、①である丸も三角も真の意味では不純物であるという認識に至る。したがって①は、新たに認識されるようになった、対応するより高位のパーソナリティーである②に取って代わられねばならないこと、そのためには魂は破壊されねばならないことを理解する。左下であれ①であれ、パーソナリティーは肉体・アストラル体・メンタル体の三位一体を指すが、②はマナス・ブッディ・アートマの霊的な三位一体(トライアド)であり、これはいわば神のパーソナリティーである。人間のパーソナリティーと神のパーソナリティーを繋ぐもの、①と②を繋ぐのが、アンターカラナの後半である。このようにして我々は真我であるモナドを見い出す。そして、それまで得られたものの産物が③であり、それはモナドつまり霊である生命と一体化し、吸収されている。この状態を「I AM」と言う。

「上にあるが如く、下もまた然り。これは一なるものの奇跡を成就するためである」というヘルメスの箴言における「下」は、破線の下である。よって最初の下とは左下の三角(パーソナリティー)であり、最初の上とは魂である。次に、融合した魂意識である①が下であり、高位の三角(トライアド)を通したモナドが上である。この上下が統一されたとき、人間におけるこの惑星における教訓は克服され、ヘルメスが言った「範囲」での上下はなくなり「一なるものの奇跡」は成就する。

672夜の読者の層は、意識の上にはのぼらないが赤線が上昇している最中の者、赤線を終えて魂と繋がった者の二層である。青線を意識的に上昇させている者は、霊的に独り立ちしており、知るべきことは自身の内から引き出すことができるゆえ、何かを読んだり誰かに教わったりする必要性からはすでに自由である。彼らは我々が知っているような、つまり左下のようなパーソナリティーではすでになく、ほとんど魂である。以上のような、ある段階における全体像を示し、自身の位置を理解させ、したがって何にいま取り組まれているのかを知り(取り組んでいるとは言わなかった)、個人や自我やパーソナリティーから自由になり、魂として霊的に独り立ちさせることが672夜の主目的である。その手段は主に瞑想である。そして瞑想と奉仕はセットであり、魂の呼吸である。


左下のパーソナリティーの意識が我々の自我意識であるが、この意識は、三つの点から放射されるフォースつまり力に動かされていることを全く自覚していない眠ったような意識である。自身を自律した思考する存在だと考えているが、それは魂がパーソナリティーの三つの力と同一化し、結果としての三つの対応する錯覚――マーヤ・グラマー・イリュージョンに惑わされているからである。この段階では、自分が行為者であるという感覚で、分離して個人で生きている。錯覚の方を自分とみなし、本物の自己が何であるかをまだ理解してはいない。ゆえに、上を知らぬゆえ真の意味での下も知らぬという無知に苦しめられる。一方、青線を上昇させている弟子たちとは、真に理解した上でオカルト的に個人性を放棄しつつある者たちである。彼らは個人に興味がなく、関心もなく、完全に魂に集中しようとしている。結果、魂を介して伝わる神の意図つまり神の意志や目的や法則を理解するがゆえ、彼らの特徴は無私の愛と奉仕に色づけられている。言い換えれば、単に左下のパーソナリティーを放棄した結果のスムーズな通路というだけであって、無私の愛と奉仕へ向かっているのは神である。真の我々、真我とは一なる神である。

これを書かされている媒体もまた、左下の錯覚から始めたのである。同じ道を辿ったのである。その道は、前にも言ったが、血だらけの道だった。先人たちが通った際に流した血と、自らが流した血の入り混じった道である。しかしそれは山頂へと繋がる道である。したがって我々の苦痛は悪いものではない。苦痛とは、我々つまり神の犠牲に伴うものであり、迷った先から踵を返すためには是非とも必要なものである。この世の弟や妹たちは、この種の苦痛を入手できる意識段階にはまだない。それはまだ必要ではない。我々が真剣に道を辿り、道の苦しさに耐え難いばかりに圧倒されるとき、その苦しみの中から新たなるものが誕生するのだということを信じて良い。実際は抵抗しているだけなのだが、下を知らぬゆえ、抵抗させる力を知らず、よって抵抗に条件づけられており、如何ともしがたいものである。だから耐えるしかない。望んでいるものは霊的なものであれ諦めるしかない。ここを理解していない者が多い。霊的達成とは、左下のパーソナリティーの欲望であり、彼の野心である。熱誠家つまり熱心に学ぶ時期の者であれば、一時的にその種の欲望に動かされることが正解だが、この次の段階に上がろうとしている意識たちのために私は書いている。よって、霊的願望のようなアストラル性質つまりグラマーを識別して見破れるようでなければ、右上ではなく、より左下に向かうだけであることを理解してもらいたい。この理解が、間違った動きを静かにさせるのである。

「自我瞑想とは何ですか」と質問を受けた。上を知らぬ最初の時期、下しか知らぬゆえ、区別のしようがない。今書いたような、一見すると霊的に見えるものでも、実際は個人的なものばかりである。瞑想もそうである。パーソナリティーの動機ゆえに行われている瞑想なのか、瞑想とは魂の存在の状態なのか。我々はパーソナリティーなのか、魂なのか。上を下に顕現させなければならない。赤線をまず上昇させねばならない。そして魂に到達し、融合し、右上の名づけえぬ存在を知ったとき、それ以外はすべて偽物だということが分かるだろう。

ここに、よく知られている間違った瞑想法の起源がある。「~ではない」という瞑想である。私はあれでもない、これでもない、と理詰めで否定していく瞑想である。このような瞑想は、右上に到達した者がその境地から述べることであり、それ以前においては理論上のものである。したがって、いかに聖人や覚者や真のヨギの存在の状態を真似ても意味がないことが分かるであろう。ヨギ・ベラですら、「もし真似できないならコピーするな (If you can’t imitate him, don’t copy him)」と言ったではないか。盲目的な模倣では到達できない。方法などそもそもない。赤線と青線を辿ることとは、私で在ることである。それは最初から達成されている。私は私を真似できない。

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