ほとんど毎日のように考えて長文を書くのは大変でしょうと言われた。多くのヒントを伝える重要なことを述べる。私は全く考えて書いていないため、一秒たりとも大変であることはない。書かせているのは誰なのか。どのような力なのか。パーソナリティーの方を私とあなた方がみなすならば、この媒体はフィルターというだけであり、媒体の知識、記憶、具体的知性、訓練された低位マインド、これらを通して、一つのアイディアが媒体なりの文章に仕上げられているだけである。私は書いている者ではなく、書かれているものに対する単なる目撃者でしかない。言い換えると、無関係である。
疲れるでしょうと言われた。疲れるとは、エネルギーとフォースを識別しておらず、フォースでエネルギーに抗っているとき、そして自我が真我に抵抗しているときに生じる感覚のことである。もし、様々なフォースに条件づけられている我々が、その条件づける力(フォース)と、その背後の真の力(エネルギー)とを識別し、ただフォースをエネルギーに従わせるようになるならば、どうして疲れるという現象が起こりうるだろうか。疲れるのは流れに逆らう個人だけである。本流を知らない無知だけである。一に抗う分離だけである。神は一秒も疲れたことがない。生命は一回も疲れるという経験がない。「エネルギーを消耗した」と人は言うが、事実は、フォースでエネルギーに抗ったために疲れただけである。自身が行為者であるという錯覚で生きたから疲れたのである。この数行の文章をもし理解するならば、我々は自由というものを達成するだろう。それは、672夜を真剣に読んでいるような意識たちには全く遠い未来の話ではない。必ず理解できる。もし聞いてくれるのならば理解させ切る自信もある。なぜなら、我々には無限の援助が上から与えられるからである。
もはや見習いの道にはいないことを示す印の一つは、熱誠と献身の領域から集中した意志の世界に入っていることである。もう一つの印は、生命を特質と欲求という観点からではなく、エネルギーとフォースという観点から解釈し始めていることである。これは明確な前進を印す。今日の弟子たちの生活において、正しい方向づけの結果としての霊的意志が使われることはあまりにも少ない。
アリス・ベイリー「光線とイニシエーション上」p.66
「熱誠と献身の領域」は見習いの時期の特徴である。私と覚者、自我と真我、駄目な自分と神聖なる方々、などと分離して崇拝し、自身を非神聖という立場に置くことでその距離に安心し、自我を満足させるという見えにくい自己強化の時期である。通常の人はこのような態度でいることに固執している。自分は弟子で、ラマナ・マハルシは覚者だとか考えたまま一生を終える。ニサルガダッタ・マハラジの良かった点は、「あなたはすでに至高の存在である」という教えを受け入れたところである。この事実を認めるべく、彼は徹底して考え抜き、師の言葉を一瞬たりとも疑うことをしなかった。だから自ら見出そうとしたのである。見習いの弟子という、最後のパーソナリティー的な意識から自由になるためには、「あなたはすでに至高の存在である」という事実を受け入れなければならない。これを受け入れるともはや言い逃れはできなくなるが、自ら退路を断つべきである。我々がたった数十年で死ぬ存在ではないことは、考えれば分かることである。重要なのは、その事実を完全に受け入れ、今見ている方向と反対方向に意識を向け直し、私そのもので在ることである。いくつか前の記事で、「私は私を真似できない」と書いた。私そのもので在るとは、在ろうとすることではない。もう在る。これが真理である。
もう一つの印は、生命を特質と欲求という観点からではなく、エネルギーとフォースという観点から解釈し始めていることである。これは明確な前進を印す。
ここで言う「明確な前進」とは、ほぼ天地の差を意味している。私は考えて書いていないと最初に書いた。この媒体を動かし書かせている力(エネルギー)と、探求を始めたときのパーソナリティー(三重のフォース体)は融合したのである。その力、その意志の中で死に、その意志になったのである。これは、最初に瞑想を通して魂に服従することを学び、次にトライアドに服従することでアンターカラナの「青線」が構築されたためである。こうして、エネルギーとフォースを識別し、エネルギーにおのれを明け渡すことを通して、「集中した意志の世界」に入ったのである。この意志は、マインドが魂に統御されるようになった後に知られるものである。しかし、エネルギーとフォースの識別は、それよりも遥か前に知られていなければならない。
これを説明するためには、最初の高位エネルギーである魂のエネルギーから話さねばならない。その者が、魂のエネルギーの伝導体になっていなくてはならないのである。これが達成されている者は、そのエネルギーと一致し融合するだけである。すると魂意識が知られるだろう。これが天国である。まだ伝導体でない場合、つまり魂のエネルギーが頭部から流入し頭部の上半球を覆い尽くして個人を統御していない場合、基本的に無力である。エネルギーは分からず、フォースに条件づけられているだけである。神の力は使われず、人間の限定的な力を使うことができるだけである。このような意識から脱するためには、瞑想と奉仕と正しい生活が不可欠である。経験上言えることは、思われているよりも厳格なものではないが、真剣である必要はある。この時期はまだ魂のエネルギーを使えないため、努力が必要になる。だから最も苦しい時期である。その苦しみを教師とみなし、あらゆる間違いや執着を脱ぎ捨ててゆかねばならない。
たとえば、いくつか前の記事で「感謝」について書いた。これを実践している者は一人いればいいレベルである。読んで忘れるようでは駄目だ。感謝は例だが、低い波動をより高い波動に置き換えることが目的である。フォースを、よりエネルギー的なものに近づけることがオカルト的な目的である。起きてすぐ感謝、日中もたびたび思い出しては感謝、寝る前もその一日の学びとすべてに感謝、ありがとうございますという精神である。もし真に見渡すならば、我々はまだ無力ゆえ、感謝すべき点は無数に見つけられるものである。
たとえば昔、家事洗濯を女がするのは当たり前だと私が言ったとき、そこにいた別の主婦の方が、違うと思いますと私に言った。その方に私は未だに感謝している。あるいは反対に、料理を作ってやっているとか、掃除してやっているとか、あれもこれも私がしてやっているのに、と考えている主婦も多い。低き波動に惑わされず、助け合い、思いやり合い、不平不満の誘惑を退け、良い点だけを見つめ、故あって関わり合っているすべての者に感謝の念を見い出す癖をつけるならば、すぐ発達するだろう。すぐ魂は降りてくるだろう。これは先程も言ったがあくまで例である。何が低き波動か、何がより高き波動かを観察して知的に、そして感覚的に識別し、正しい方を選び取り、高き波動におのれを合わせゆくことが、見習いの道で済ませなければならない自己改善である。今書いたことを難しく書いてあるのが以下である。
私たちが純粋に正しく生きているとき、私たちは実際にはフォースに働きかけ、エネルギーを私たちの必要に合わせ、エレメンタル生命を霊的存在の必要性に従属させ、それまで潜在的な状態にあり不活発であったメカニズムと活力構造物を活動的な状態へともたらしているということを自覚することは容易ではない。
ホワイトマジック上 p.233
容易ではないゆえ、盲目的な部分はあるが、それでも正しく生きようという意志がもしあるならば、その者は実際に正しさを実践しようと毎日するだろうし、おそらく数年で、もしくはそれほどかからず、急激に進歩したことを理解するだろう。そして、進歩はどんどん急速化するだろう。エネルギーとフォースを実際に識別したり扱ったり応用したりできるようになる前は、抽象的なものはすべて具体マインドによって具体化されるため、概念や観念でものごとを識別したり扱ったりしなければならない。ほとんど道徳の授業のような話をしているが、違うのは、波動の科学を知的に理解した上で科学的に自らを実験体として、悪い概念や行為に条件づけられがちな自分を、その反対の良いものに方向づけようと意識的に、知的に行うという点である。誰がこれをするであろうか。するのは、その必要性が感じられる者だけである。
悪しき波動に生きた経験を積んだ者は、それが一つも自身にも他人にも良いものではなかったことを身を持って知っている。そして失敗と苦痛の繰り返しによって、それに疲れ果て、悪に生きるぐらいならば死ぬべきだとすら考えている。このような者は、悪いことを当たり前だがしない。そして、善きものに常におのれを置き換え、高く美しきものに従属しひれ伏し生きることの喜びを徐々に知り出すだろう。このようにして、人の灰汁は取り除かれ、純粋な媒体に近づくことによって、より純粋にするためのエネルギーが上から降りてくるだろう。頭部に充満するようになり、それを眉間からあらゆるものに使え、応用できるようになるだろう。そうすることで、視点は結果の世界ではなく原因の世界に移り変わり、何事も内界から働きかけるようになるだろう。外と結果は重要なものではなくなるだろう。こうして、世の中ではオカルトの語を誤解しているが、その者は何がオカルトであるかを完璧に知るようになり、また世の者が心霊とか幽霊とか言うが、何が真の霊であるかを徐々に知るようになるだろう。これは大多数の兄弟姉妹にとっては未来の科学だが、我々においては喫緊の課題であり、瞑想を通して日々理解へと前進せねばならない火急の宿題である。
「あなたはすでに至高の存在である」。これが事実であることを、その至高の存在が教えに来るだろう。すると、我とそれは同一のものである。我と神は一体であり、神我一体を魂の意識が教えるであろう。だから、見習いの後半にさしかかるまでは、遺憾ながらも努力を教えねばならないだろう。そのようなフォースではなくエネルギーを知ったとき、両者は調和へ導かれ、意識は天国を知り、天人方の意識へと入り、その意識が「神の意志」を教えるだろう。エネルギーを教えるだろう。方向性を教えるだろう。正しい在り方を教えるだろう。このとき、当たり前だがその者は人間を超越している。したがって人間の意識世界の物事からは自由になる。その後にすべきことは、途切れることのない融合の完成であり、意志の理解であり、意志つまり神への没頭である。その具体的な表現が奉仕であり、流入と流出は常にセットであり、入ってきたものは出る。受け取ったものは与えられる。この真の食物連鎖を知り、人類だけが神の意識の主要部分では全くないことを知り、動物、鉱物、植物、すべてが調和の中に共存し、すべてが神の域まで引き上げられることが神の意志であり、そしてすべては我にして我そのもの、もしくは我の部分である。分離感がなくなったときだけ平和を知ることができる。全部我であることが意識内で事実になったときだけ恐怖は消え去り愛が支配する。そして神の意志は、全員を超越させるまで気が済まない。だから真の意味では、すべての気が澄むとき、神は気が済むが、まだそうでなく、エネルギーとフォースがそれぞれ逆のベクトルを志向しているため、意志が喚起されねばならないのである。
