火の正用と誤用

瞑想は「無」になることであろうか。仏教的な「無」の概念は、すべての消滅を連想させる。一方で、我々は低位我から高位我に移行すると言う。低位の我から高位の我に移行することと、「無」の概念は整合性があるのだろうか。客観と主観がある。顕現とその原因がある。外と内がある。これらの前者に注目を焦点化させていたときに生じていたもの、自我意識を含めた外的な、低位の、客観的なものすべてが、移行という撤退能力によって停止するだけである。それは、人間における既知の「無」である。それは錯覚の終焉であり、我すなわちアイデンティティー自体が消滅するものではない。言い換えると、生命自体は無にならない。

最初は、低位我としての我しか人間は感覚できない。この感覚が無くなりゆくのが瞑想の進歩の証である。このとき、「私は何とも無関係である」という高位の感覚が発達する。それは明らかに「I AM THAT」という聖なる自己本質の認識に基づいている。それは「高位の我において、私はかつて知られたものとは無関係である」という非同一化、同一化させない力の増大、三界から孤立した無を生み出す。

私はたびたび、一切が無関係であるという意識について語ってきた。その次に起こるべきは、撤退である。無関係であるものすべてから、意識を逆向きに、私自身に向け直すことである。これが瞑想における集中の点であり、前回の記事で言えばTensionの点であり、三界からの自由を達成させる真の燃焼の点である。この集中領域に安らいだとき、無という自由が達成される。これが至福であり、潜在的で知覚されてこなかった苦痛も含めたすべての苦痛からの自由である。この場合の霊的至福はヘッド――人間でいえば松果体の領域で感じられる。一方、さらに前の記事で語られた「永遠性」であることによる至福はハートで感じられる。

我々がこれらを引き起こすエネルギーについて論じるとき、それは燃焼を引き起こす火について語るものである。普通の人はクンダリーニの火の概念しか持たない。それは物質の火である。初心者は決して興味を持つべきものではない火である。この物質の火とマインドの火が混ぜ合わされたものが、いわゆるアグニである。当然ながらアグニの概念はより広大なものであるが定義は間違っていない。最後に霊の火が加わるが、これらの文章はあまりにも説明のために簡略化されたものである。重要なことは、燃焼や火の概念を持つことであり、後に燃焼に到達することである。これは冷たい火として感じられる。瞑想は最終的には火の科学に席を譲り、「あなたの神、主は焼き尽くす火(申命記4章24節)」の意味を知り、燃焼の受け皿として、眉間を通し、リラックスした集中を通し、我を意識的に火に投げ出すことが極意である。これは真に焼身のテクニックである。

重要なのは、このようないずれの瞬間にあっても、意識と精神はリラックスしているという点である。ジュワル・クールは、「どのような意味においても、ブッディ界で機能できるようにならない限り、主観的に生きることは不可能である」と言っている。我々である魂がアンターカラナの構築を通してブッディ界に意識の根を下ろしたとき、霊的な真の意味での平和を理解する。この世の者は、戦争がない状態を対比的に平和と呼ぶが、そのような客観的顕現の世界の背後の原因の世界の調和はブッディ界に入らないと理解できない。したがって真の平和運動家は、ほとんど常に瞑想者であり、真我探求者である。真の主観である真我として存在できるようになったとき、何が平和であり、何が平和を乱すものであるかを完璧に理解するであろう。この霊的燃焼点、霊的に意図された火の活用が平和であり、これを無視した火の誤用が戦争であり、火による誤った形態の破壊であり、これはいたるところ、環境破壊、技術の暴走、心理的・社会的崩壊といった点においても同様に見られるものである。すべての惨事は、火つまり霊的エネルギーに対する無知と誤用の結果である。

無とは、それまで関係していたものの焼失であり、元から存在していたものの露出である。ちょうど化学者が物質を灰化したとき、有機的な関係がすべて燃え落ち、還元不能な基底成分だけが残るようなものである。彼らは、それが細胞であれ生物であれ食品であれ、元の物質に戻せないことを知っていながら、有機的な殻そのものを焼失させ、測定可能な純粋な無機成分のみを収穫する。瞑想でも同じことを意図的に高位我として行う。もしくは行われるよう自らに方向づける。このようにして自我を焼き尽くし、自我を生み出すコーザル体を破壊し、純粋霊のみを抽出する。この構造を人々は真我実現と言っている。

瞑想する者に、真我実現の定義を聞いてみよう。あるいは、動機を聞いてみよう。そうすることで、その者の錯覚を露わにし、間違った歩みを認識させ、進歩の阻害要因を明確化させてみよう。しかし、人々はそれを嫌がるのである。子供に瞑想させることが賢明ではないように、魂の若者に瞑想させることもまた危険でしかなく、彼らは純粋な人格を達成していないため、火は誤用され、自己破滅に導くことが危惧される。私は、心の純粋でない者に瞑想させることは反対である。ゆえに、それまでは既存の宗教などで善良な精神の修養に努める方がいい。健全でない心が、まだ偽とも分からぬ己の目的や願望のために瞑想を利用しようとする場合、明確に危険である。幾度となくそのような例を見せられてきたゆえ言っている。瞑想よりも前に、正しい人格が必要である。そうでなければ不可逆的な火遊びになる。ある聖人は、複数の生涯を犠牲にすることさえあると警告している。だから、誠実な者、あまりアストラル的でない者、自我の欲求に踊らされることのデメリットをよく知っている経験豊かな魂的老人、このような者たちにのみ真の瞑想は伝授されねばならず、そのためには公には秘教のように、分かる者にしか分からないような書き方や言い方を必要な箇所では工夫しなければならない。残念ながら、瞑想は若者のものではないが、若者がかじり出しており、世間一般では危険な瞑想がしばしば流行している。彼らの目的は自我の目的である。しかし、真の瞑想はそのような自我を破壊するものである。この区別すらつかない者は、瞑想をする前に、更生すべきである。

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