背後と背後を隠すもの

最もリラックスした状態とは、最も集中している状態である。矛盾しているだろうか。

平均的な瞑想者は集中しようとする。熟練した瞑想者は集中の先の世界にただ存在する。これは、エネルギーとフォースを識別していないことによる同一化の違いを指し示している。集中しようとする個人の、そのような騒動、個人的な動機から引き起こされる騒動の背後に、集中の世界がある。言い換えると、メンタル界の背後にブッディ界がある。これが「何もしなくてもよい世界」である。それは調和が達成されているがゆえである。この調和を乱し、分からなくさせているのが個人である。個人とは、自分が行為者であるという感覚的錯覚である。この感覚は、魂が三界のフォースと自己同一化したときに生じる分離感覚を基盤とする。唯一なる源を忘れて、形態と顕現と感覚の世界に惑わされて、自身を世界の中の独立した存在だと思い込むのである。これは無知というよりも、精神病である。メンタル的な錯覚の病いである。形態や顕現の世界を重要だとみなす信念を無視するならば、マインドが見せる世界の背後に永遠の極楽浄土を見い出すだろう。この源に生き、存在している状態を、世間では悟りとか、覚醒とか、真我実現などと誤った概念で遠目に見ているのである。自身がそれであるにも関わらず。

心が清くない場合、明らかに間違った瞑想に導かれる。単純な理由で、清くない者は自我に生きているからである。自我の目的のために瞑想を利用するという、完全に逆転した発想を彼らは持っている。そのため自我で集中しようと努めたり、気づいていようとか、ただ観察しようとか試みる。熟練した賢者は、それらを自身と無関係な騒動とみなし、全く関わらない。だから、「何をして真我実現したのか」と問われたとき、ニサルガダッタ・マハラジは「何もしなかった」と答えたが、どの質問者もそれを理解しなかった。「何かしたはずです」と食い下がった。ラマナ・マハルシの場合、この種の騒動者に何を言っても無駄であるため、そう質問しているのは誰か、と問うことで意識を逆転させる方が有効だとみなした。それはそうだが、騒動と同一化しているような者は、今後は、「それをしているのは誰か」と問うことを方法とみなし始めるだけである。私が言っている意味が分かるであろうか。

ラマナ・マハルシは、「私は誰か」と問うことで真我を実現したのだろうか。そうではなく、質問してくる者に提案しただけであり、自分ではやらなかった。ニサルガダッタ・マハラジもまた、「私は在る」について考えたのはほんの最初だけであると言っている。事実は、二人とも何もしなかったということである。これは、一般的には誰も解説しない話である。というのも、人々は聞く耳を持たず、自我として方法を探し求めているからである。この話は事実ではないのですか。

たとえば、私がこれを書いていると人は言うが、私は書いている最中でさえ何もしていない。意味が分かるだろうか。普通の人は動いている肉体をその人だと考えている。動かすエネルギーの世界が原因の世界であるが、私はその原因の世界の背後に存在している。覚者方が原因の世界と呼ぶものもまた、唯一なる真我からすれば、外的なものであるか、私の中に包含されている一つの話でしかない。要点を言おう。肉体を動かす力の背後に一なる存在が在るだけである。「我=肉体」が普通の人間の朦朧とした意識である。「我=肉体を動かす力」が弟子の意識であり、彼らはエネルギーとフォースを識別し、個人的な三界のフォースをすべてエネルギーに従わせることを仕事としている。「我=肉体を動かす力の背後」で在るとき、その者は我々の三界を超越している。つまり、「肉体を動かす力」など、いかなる力も彼に影響を及ぼすことは不可能であるが、彼は意識と意志を通してそれらを従わせることは可能である。これが、運命やカルマの犠牲者でしかない人間と、運命に無関心のまま神の宿命に打撃を加えようとしてくる力を統御する運命の支配者との違いである。

世の教えを見てもらいたい。それらは「自我への教え」である。この偽の構造を見抜くまで、私も繰り返し失敗した。自分で何かやるものだと思っていたのである。強烈な間違いだった。低位我と高位我と言うが、低位我とは偽我であり、存在を語る偽の詐欺師のようなものである。それまで自分と思われてきたものは、本来の我々とは全く無関係の、そう思わせたり感覚させたりするだけの、完全な偽物だった。この偽物を白日の下に晒し上げるのは、魂の光である。人間が自身である魂と繋がったとき、低位我が高位我と繋がったときのみ、偽物は理解される。また魂という中間体によって本物が上方に啓示される。実際は上というより背後である。何の錯覚でもそうだが、気付いたときは、「なんだそういうことか」となる。見えているが見えていなかったもの、の類いである。では、見せないようにさせていたものとは何か。自我だが、自我を存続させているのは、自我で何かを経験したいという欲望である。現代人における最大の敷居の住者がアストラル界になっているのはこの錯覚ゆえである。これが現代の弟子たちが最も苦しめられる煩悩であるが、魂と繋がることで煩悩に無関心になるならば、意識の強調点は背後へと移行し、見えていなかっただけで最初から存在していた私が露わとなる。この存在つまり我に気づいたならば、あとは真我に集中つまり意識を方向づけるだけである。それを行うのは、「肉体などを動かしてきた力」つまりフォースではなく、新しく理解できるようになった本物由来の力(エネルギー)である。この力へおのれを委ねることが「明け渡し」であり、結果として、「何もしない」ということになる。それは「在る」だけだからである。そして、今もそれは「在る」。それが「在る」ゆえに、我々は在る。

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