誰かを嫌いであるとしよう。人間だから合う合わないがあり、避けたい人間から嫌いな人間、ひいては許せない人間、憎むべき人間へと変化するのは初期段階の意識では避けられない。これを無くしたい。誰かが嫌いなとき、その誰かという特定の者は、実際には我々のマインドの中にしか存在しないのではないか。その誰かは、想念でしか捉えることができないのではないか。あるいはその相手の肉体を目の前でみるとき、マインドが関与しなければ、あるいは記憶喪失にでもなるならば、純粋に接することができるに違いない。ということは、相手を見るときに介在するマインドが問題なのではないのか。そしてそれらのメンタル認識は、私の内に在り、私内での責任ではないのか。だからといって、どうしろというのだろうか。
「嫌悪の対象」と結論させるマインド内のアストラル感覚を、魂の光の中で見なければならない。純粋に言い換えると、単なるカーマ・マナス的なフォースを、高位のエネルギーと混ぜ合わせるだけである。すると、嫌悪の感覚は消えたことに驚くだろう。自身が魂であることを知っている意識、つまり「I AM THAT」という意識においては、いかなる感情も想念も、対象を見るに当たって介在することはできないことを知るだろう。ここからもっと進まねばならない。そのとき、対象などあるのか。対象とは想念である。想念がないとき、私が在るだけであることを知るだろう。すべてがマインドを通して意識内に分離して存在していたかに錯覚して見ていたにすぎないことを理解するだろう。この「残った私」に集中すべきである。言い換えると、「残った私」で在るだけでいい。このとき、「I AM THAT」という分離認識さえ消え去り、「I AM」という高位の普遍的存在意識だけが残るだろう。この存在は、仏教徒の言う「無」と同義語でありながら、生きとし生けるものすべてを包含するものである。この一元において、対立構造はありえないことを私は訴えたい。
以上を一つの例として見るならば、あらゆる対立の種子は自身で生み出したものであることを完全に認めるだろう。この意味では自己責任である。他人のせいにするのではなく、自分のせいにするのであるが、その自分、悪しき種子を生み出す傾向を持つ自分とはどのようにして成り立っているのか。簡単な話。低位我のフォースにそのまま同一化して、そのままそれに乗っ取られて、そのままそれに動かされているという、高位我と低位我の識別がないというだけの話である。低位我は、「あの人は嫌い」とか「この人は好き」とか、何でもよいがアストラル的かつメンタル的なフォースと関わることで成立する架空体である。魂が無知のままそうした波動と自己同一化するがゆえに、あたかも分離した個人が存在するかのような感覚を自作しているのである。自らおのれを限定し、檻の中での不自由に苦しみ、解放を求めるのである。その檻は自分で作り、自分で維持しているだけの、「存在していない存在」ではないのですか。言い換えると、檻から出れるのに出ないのはなぜですか。
この間違った自己と、その自己ゆえに生み出される感情や想念といった、自己全体像を内的に俯瞰するのではなく、外的に自己同一化し続けるのは、その役として、特定の経験や感情や快や不快や喜怒哀楽や幸不幸といった、ありとあらゆるものを偽の自己で経験したいという欲求と執着があるからではないのか。偽の自分としての経験欲。これが意味するのは、経験不足である。言い換えると、経験によって得られるものの中身の学習不足である。これは責めているわけではない。事実を順に確認しているだけである。これを読んだあと、何かをするだろう。何かしたいことをするだろう。間違った自分として。しかし、もしこのまま瞑想を続けるならば、その間違った自己として何かを経験しようとすることが苦しくなる。つまり、自我としての行為はできなくなる。瞑想を続けるとは、その執着している自己を破壊する超自己を呼び込むということである。自分でなくなること、自分が去ること、自分との関係が切断されること、これは悲しいことではない。檻から出た後に、我々は真の自由を知るだろう。これほど素晴らしいものなのかと泣くだろう。もう檻の中で輪廻を繰り返す必要がないことを知るだろう。同時に、何が輪廻を可能にさせていたのか、その原理に目が開かれるだろう。こうして、カルマや輪廻の原因を生み出すものに目を向け、対処するようになるだろう。なぜなら、まだ自らの内に結果を生み出す種子が残っているからである。
ここで冒頭の話に戻る。「誰かを嫌う」ならば、憎悪という種子の無意味さを学習するまでは、輪廻し続けるだろう。ときには殺す人生、ときには殺される人生、ときには愛する者を殺される人生、このような魂的に意図された演出という人生劇場の中で経験を繰り返し、徐々に、憎悪はもはや私には何の意味ももたらさない、という結論に至るほど進歩するだろう。あらゆる情緒、あらゆる想念に関しても同じことが起こるだろう。結果、「私は何とも無関係である」という高位我の力による三界からの孤立が始まるだろう。このようにして、再び生まれるという錯覚的な経験の周期は終わりを告げるだろう。
一般的な宗教や倫理の先生はこう言う。「無害でありなさい」と。遺恨や嫌うべき理由があるのに、どうしてそれが可能であろうか。無害を不可能にしている自身の有害性に対処することが先であることは自明である。それをしてこなかったということは、我々は馬鹿なのだろうか。考える力がないのだろうか。それとも、考えたくないのだろうか。あるいは、考えて解決できるものではないと結論づけて放置しているのだろうか。結局のところ、こういうことは考えたくないし見たくもないのである。なぜなら、自我を成立させているものを見てしまうと、それを壊しかねないからである。私を殺しかねないからである。我々の最大の特徴、無知にして欠点である特徴は、自分が好きだということである。自分を最も大切に感じているということである。一方でいわゆる聖人は、そのような自分に関心がなくなり、放棄してしまった。なぜなら、経験は意味がなくなり、自分は自我としての「I AM」ではなく、真我としての「I AM」であることを理解したからである。
ところで、我々はどちらを大切にして生きているのであろうか。あるいは、まだ自我の騒動に耳を貸しているのであろうか。まだ「自分」を大切にしているのであろうか。これが、見えない理由である。
