もし内的に落ち着きがなく、瞑想することもままならないと瞑想中に感じたならば、普通は諦めて止めるか、かつて達成されたレベルにまで入れるよう何とか努力しようとするだろう。このような判断に関わっているのは個人であり、個人の動きは常に逃避的である。私ならば、「今日は諦めよう」とか、「より深い意識に入るまで頑張ろう」などといった想念とそもそも関わらないため、何もしない。何もさせない力が勝っている。瞑想させないように内部で暴れ回っているものをただ見る眼が在るだけである。それは決して、「私」と「暴れまわるもの」の間に境目を見ない。いかなる対象であれ、それは「私自身」である。これが分かったとき、誰が何をすることがあるだろうか。分かった瞬間に、暴れまわるものは我が内なる平和に飲み込まれるだろう。分離して見るならば、決して平和も調和もないのである。
例えば薬物や毒物を誤って摂取したとする。その質と量によっては、私も瞑想できなくなるだろう。高位の意識から締め出され、個人意識に落とされ、内部を蹂躙する破壊的なフォースに如何ともしがたく条件づけられるだろう。しかし、(いわば)眉間さえ壊れていなければ、恐れることはない。動けないほどの状態でなく、生きているかぎり、生きるためのエネルギーは流入しており、それと眉間から繋がることは可能である。繋がるとは、一体化するというニュアンスである。たとえ肉体や精神は、そのような薬物や毒物で危険な状態にあろうとも、それらから自由な満たされた意識内に安らぐことが可能である。この意識の基盤は、拡大された意識内におけるすべての生命との一体性である。
となると、分離感覚が一番恐ろしいことになる。自分が完全に固有の独立した存在であるならば、一時ですら心休まることは不可能である。その分離した自己を本物とみなすため、その自己が他の自己より優れていなければ危険であると感じ恐れることになる。優秀と見られたり、富や地位などの根拠から優越的であったり、他の自己を犠牲にしてまで自己を上位に掲げなければ、自分は尊敬されるどころか馬鹿にされ、有能ではなく無能、金持ちではなく貧乏、端正ではなく不細工、人気者ではなく嫌われ者……、絶えず心苦しく、自身より優れた者に嫉妬し、世間からの扱いに不満と憤りを覚える負け犬の人生になると考える。これは精神の地獄絵図だろう。
苦悩や悲哀を生み出す無知の根源は錯覚を受けたマインドである。ここまでの理屈が分かったとしても、聖人の本には「マインドを超えていきなさい」と書いてあるだけである。そのためには「私は誰か」とか「私は在る」とかをやりなさいと言われるからやりもするだろうが、そこには、行為している者がいるではないか。経験者が存在するのである。その行為者と経験者は、メンタルやアストラルと結びついたエゴつまり魂である。「マインドを超える」とは、マインドの通常活動を押し黙らせるほどの別の高次の力を受け入れるということである。マインドがその無意味な活動を停止したとき、我々は分離感から自由になる。生まれて初めてそのとき喜びを知るだろう。平和と調和を知るだろう。ゆえにこの上なく至福であるだろう。これがいわゆるサマーディーである。この最初のサマーディーは秘教徒や神智学徒がブッディ界と呼ぶ界層で確認されるものである。
ブッディ(buddhi)とは、ブラヴァツキーが当てはめた翻訳語である。その意識界層に名前をつける際、もっともそれらしいものとして、buddhicつまり「仏教の」と言うより、人類史上もっとも誤解されにくい象徴を選び「仏陀的な」という意味合いで命名した。それは、「人格を超えた覚醒」とか「目覚めた知恵とそれが教える名づけえぬもの」といった意味合いである。そもそもbuddhiは、サンスクリット語の「目覚める」「識別する」という語根である「budh」に由来する。それはメンタル的でもアストラル的でもない、主客が分かれる以前の、直接的で統合的な、そして純粋な意識が、「I AM THAT」にあたる「THAT」を識別した領域、魂が霊すなわち生命自体で在ることを可能とさせる意識領域である。そこでは、「私は理解している」という自己意識を伴うこともなければ、価値判断や比較も存在せず、部分ではなく全体としての一なる全我が即座に知られている至福の存在状態である。
それは西洋の画家たちが描いたキリストにまつわる壮麗なように見えてけばけばしいだけの天上的なもの、光、栄光、上昇、救済といったモチーフとは全く別の、むしろ仏教の無の概念、すなわち既知の無による真理の顕現という意味合いに近いものである。西洋的キリストの表象が「対象として見られている光」であるのに対し、東洋的仏陀の「無」とは、虚無でも、暗黒でも、空白でもない、既知の枠組み、既知の自己、既知の意味づけが焼失した結果として残る、きわめて排他的で孤立した純粋な統一状態であり、それは「光に満ちている」状態ではなく、光と闇という対概念自体が成立していない沈黙の領域である。ここに導くのが瞑想の最初の目標である。人格なる分離を超えた一なる平和である。したがってブラヴァツキーが、キリストを連想させる栄光的なものを拒み、仏陀を連想させる落ち着いた静かな笑み、そこに溢れる愛と智慧、一なるものをついに識別したがゆえの至福の意味を込めて「buddhi」とか「buddhic」としたのはきわめて美しい。
そして、「分離という大いなる異端」が消えた世界は、実際に美しい。それは、我々が誰であれ、その内にいま存在していることを忘れてはならない。瞑想できなくさせる「うるさきもの」、それをどうこうしようではない。それは私である。自分が分離した行為者だと考えるから、自分が対象に何かをするものだと錯覚しているのである。もし、対象と思われるものと、「ただ一緒に在る」ならば、ブッディに溶け去るだろう。幸福であれ不幸であれ、低位の感覚はすべてブッディに吸収され、識閾下に落ちるであろう。この絶対、この永遠に抗える者が存在しうるだろうか。どんな頑固者でもイチコロで黙り微笑み、どんな人殺しでもイチコロですべてへの愛に満たされ、どんな自我でも見事に自発的にそれまでの自己を捨て去ることの喜びに圧倒されるだろう。キリストは第七段階のイニシエートだが、仏陀は第八段階のイニシエートだとジュワル・クールは言う。8は無限である。ブッディを知るとき、限定が取り払われ、際限がなくなり、分離ではなく無限の意味を理解するだろう。
かなり昔の記事でも書いた記憶があるが、霊の領域は、キリスト的ではなく仏陀的である。魂に関してはキリスト的である。
