「あるがまま」からの逃避

あなたは、あるがままと直接に関係しない。あなたは、孤独の扱い方をご存知だとおっしゃる。指摘させていただくなら、この、孤独への働きかけそれ自体が、あなたなりのその避け方なのである。あなたは、散歩に出かけたり、あるいは孤独が去るまでそれとともに座っておられる。あなたは、常に孤独に働きかけていて、孤独にその物語を話させない。あなたは孤独を支配し、孤独に打ち勝ち、孤独から逃げ去ることを欲する。それゆえ、あなたと孤独との関係は、恐怖の関係なのである。

クリシュナムルティ「生と覚醒のコメンタリー2」p.14

「あるがまま」とは真我のことである。ところが我々は自我であるため、どうしても条件づけられた存在であり、常に真我から逃避的であり、「あるがまま」の反対方向を向いている。実在つまり実際に在るものではなく、肉眼で観測できるものを存在だと信じている。この責任は我々にはない。我々つまり肉体や精神は、低位我のフォースにただ動かされているだけであり、自我はただの自動人形である。問題なのは、その無関係な代物を自分だとみなすことを止めないことである。しばらくするとそれは死ぬ。肉体だけでなく精神も死ぬ。消え去る。より大いなる存在に吸収されて消滅する。前の生涯の精神状態を誰も覚えていない。それは引き継がれない。毎回、異なる人格である。

「孤独の扱い方を知っている」と主張するこの質問者も、肉体や精神としての自己を自分と思っている。現象的な孤独と対処しているだけである。もし天涯孤独などで誰とも接触も会話もない孤独が生涯に訪れたとき、人は孤独感に苛まれ、普通は必死に誰かと繋がろうとするだろう。その寂しさは、霊的な一体化の低位我レベルにおける対応する衝動である。孤独を感じ、孤独でなくるために、寂しくなくなるために、孤独に対処しようとする。それは自我の要求を飲み、自我の要求を満たそうとすることだ。しかし、自我と関わりを持ち続けるのならば、あるがままである真我と関係することはないだろう。

もし孤独になったとしても、「関係ない」と思える魂意識でなければならない。孤独感は、この世界の、単なる形態の現象的な見方にすぎない。形態は実在ではなく、形態を映し見せているマインドさえ魂として統御できるならば、孤独感とか、感覚的なものは知覚すらされず、我々はただ沈黙の中に霊的至福として輝くだけである。

クリシュナムルティは、「あなたは孤独自体にその物語を話させない」と指摘した。それは、孤独感に対していかなる働きかけも、つまり抵抗もしないとき、孤独感が何であるかをそれ自体が理解させるだろう、という意味で言っている。我々はアストラル体を統御していないため、この種のフォースと自動的に同一化し、「私の感覚」だとみなす。感覚と我々は無関係である。感覚をどうこうしようという精神が、感覚を強化しているにすぎない。もし感覚をただ眉間から見るならば、つまり魂のエネルギーをそのフォースに融合させるならば、これは働きかけと言うよりただ共に在ることであり、感覚は高次の至福の中に溶け去ることを知るだろう。

弟子の態度とは、「どうでもいい」とか「どちらでも構わない」という魂的な無関心である。見習いの道を卒業したとき、彼か彼女は自身を魂とみなすよう実際的に努めはじめる。魂からすれば、個人の話は無関係である。このようにして、弟子は低位我の要求ではなく、高位我の要求のみに関心を持つことで、低位我を自動的に死滅させるのである。

さらに進んだ話をすべきである。すでに魂としての自己が確立されている者は、徹底的に内へ、つまり反対方向へ意識を向け続ける必要がある。そして、魂とは私である、と言えるくらいに融合せねばならない。こうなると、神が焼き尽くす火であるという意味を理解するようになるだろう。神の火を自らに適用し、焼身せねばならない。これには魂の集中能力が必要である。たとえマインドが方向づけの意図を持とうとも、それは個人の集中しようという努力とは無関係な集中である。なぜなら、集中とは霊的には調和を意味するからである。ゆえに、瞑想者は集中に「病みつき」になるのである。

もう少しはっきりした表現をしたい。この集中させる力とは、我々の自由意志による力とは異なる力である。我々が感じている自由意志のようなものは、この聖なる意志によって上書きされ、我々のマインドからすれば、その意志や力は我々とは別のものとして理解される。それは独立した知性を持ち、法則に完全に準ずる聖なる力ないしは意志であり、我々はこの高位の意志と自らを一致させねばならないのである。このようにしてのみ、我々はあるがままと関係するようになる。面倒を見るのはあるがままである神であり、それを承認した個人は、ただ自身が焼き尽くされることの正当性に没頭するのである。これが、信じられぬばかりの喜びと解放を我々にもたらし、真の意味で孤独や分離を打ち消す意識と生命を露わにさせるのである。

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