家に誰かが来た。彼は、その家は私のものだと主張した。こうして、家をめぐる私と彼との争いが始まる。そのうち、私は彼がひどく神聖で、著しく礼儀正しく、自分のような粗野な者からすれば平伏すべき存在であり、格が違うことを理解しだす。と同時に、彼の主張は理にかなっており、家が彼のものであることを全面的に理解し、賛成すらするようになる。昼は私が家にいて、夜は彼が家にいるような生活から、共同でいつも暮らすようになり、ついには、彼が自分であるという驚くべき事実を理解するまでに至る。かつては家を巡って争いもしたが、錯覚が溶け、自分と彼が同一であることを悟ったとき、それを悟らせるための場であった家はもはや重要なものではなくなる。このとき意識は世界と物語から切り離される。切り離された後の意識世界を、人はニルヴァーナと呼んでいる。
小学で霊的に意味が分からず高位の波動に苦しんでいる者も少なからず存在しているゆえ再び言うが、私は悟りたいから瞑想を始めたわけではない。悟りなどの概念には興味すらなかった。間違った大人はそこに興味をもって自滅している。当時重要だったのは、苦痛をどうにかしたいということであり、目の前の自身の切迫した苦しみへの対処に苦慮していただけである。苦痛を取り除く手段が悟りや霊的発達ならばそれを欲するという考え方であり、一番重要なのは苦痛からの自由であった。そして、それが無理なら死ぬしかないという状態だった。問題なのは、何の理由で苦しいのかが分からなかったことである。最終的には理解したが、家に訪れた誰かを、私は認識しておらず、無意識に彼を拒んでいたがゆえ、その内的な対立関係によって苦痛という感覚が生じていたのである。言い換えると、我々は真我であるが、間違ったものを我と思っているがゆえ、その無知の抵抗によって避けがたく苦痛が生じていたのである。
これが分かった後、私は「何もしなくていい」という驚愕の真実に喜んだ。世の中の一箇の人間として生きるならば、東大に行けとか、医者になれとか、金持ちになれとか、好かれる人間になれとか、延々と無理難題を言われるだろうが、霊的来訪者は、「何もしなくていい」というその一点だけを教えに来た。「する」ということはありえないことを教えようとされた。なぜなら、我々はすでに「在る」からである。それ以上それ以下はないのである。真我以外はないのである。だからこの世の錯覚を受けた親に育てられる弱々しい子供たちの、なんと可哀想なことか。君たち小学生が自殺しまくっているではないか。「何もしなくていい」の反対を親や先生が教えるからである。「在る」ではなく「する」を教え、押しつけ、分離を強化し、競争を促し、自我の輝きを拡大することに重きを置くという、霊的真理とは真逆を強要すること、親の願望を押しつけること、それを「子供のため」という詭弁に置き換えること、これらを教育だとはき違えているがゆえ、君たちですら苦痛のあまり死なざるをえないのである。
馬鹿な教えを受け入れる必要はない。あえて馬鹿になるな。「何もしなくてよい」という教えの真意を突き止めよ。「するのではなく在る」という事実の真意を突き止めよ。突き止めるためには、その頭は使うな。その頭で考えたいならば東大にでも行け。一生勉強でもしておけ。それより真理を学ぶ決意を固めたならば、瞑想し、考えないことを習得せよ。考えないがゆえに露見する知性つまり沈黙の声に耳を傾けよ。そして内なる来訪者に備えよ。すでに歳若くして来訪を受けている者は、彼が真我へ導くことを理解せよ。私も君たちの年齢の頃にはすでに来訪を受けて困っていたゆえ気持ちは分かるが、彼は魂である。我々からすれば真の自己である。この世の何ものにも上書きされることのない純粋自己である。彼ですら、真我なしには存在できないことを彼から学べ。言い換えると、我々も含め、すべては真我なくして成立しないと言うより、真我なのである。これは瞑想で学ぶ融合つまり一体化によってしか理解されえないだろう。沈黙の領域でしか理解されえないだろう。顕現という騒がしい領域では注目の焦点が合わないままだろう。一なる生命の中でしか悟れない真理であろう。
これを難しいと言うならば、それは逃避しているか頭で考えているかのどちらかである。頭で考える者は馬鹿だ。言い換えると、考えないと分かることができないならば、考える能力に乏しい者には何の希望もないではないか。考えずに知る能力が元々備わっていることを理解せずしてどこに希望があるか。小学生のみなさん、しっかり聞いてもらいたい。考えることを鍛える必要はあまりない。そこそこでいい。数学などの学科は無視するかせいぜい趣味程度に留めておけ。沈黙の領域では読み書きが通用せぬことを知れ。知識や概念が何の役にも立たないどころか邪魔するだけであることを知れ。頭は沈黙の邪魔だ。本物を歪めるだけだ。考えることは大変だが、静かであることは心地良い。努力することはきついが、眠ることは気持ちいい。前者が偽で後者が本物を指し示すものだ。
学校は行きたくないならやめろ。私はついでに家出もした。クリシュナムルティはテストは受けても白紙で出した。しかし、親を子供と思え。優越感や馬鹿にする気持ちからではなく、単に魂的に年齢差がある事実を知れ。肉体的には大人でも、若者だらけの世の中であることを早めに見抜き、まだ幼い親を養う気持ちを逆に持て。早めに精神的な親子関係を逆転し、対立したり喧嘩したり攻撃し合ったり馬鹿なことはせず、そこそこの融和点で妥協してやり、それ以外は本物に集中せよ。しかし、瞑想は十五歳までやるな。その方がだいたい安全であるから、それまでは好きに遊び尽くすことを重視せよ。そして重要なことは、誰にも頼らないことだ。一人で修羅場をくぐり抜けよ。これなくして大人になるならば、著しく何の頼りにも役にも立たぬ大人で一生を終えることになりかねない。さらに、死ぬことは怖いことではない。死を恐れず正しく生き、困っている友達がいたら全員助けよ。この世では損してでも兄弟姉妹に霊的に尽くせ。そして十五になってから瞑想すればいいよ。それまでは遊べ。時々は親対策で勉強してやることも忘れるな。
そして瞑想に入ったならば、全責任から自由であることを知るだろう。私が責任者ではない。彼が責任者である。次に知ることは、彼が私だということだ。彼とは神である。真我である。真我は努力なき責任者にして不眠不休の奉仕の源である。無限のエネルギーである。このとき、「する」はない。「すること」もない。「在る」という当たり前のことが真理になるだろう。これは今の意識ではないが、そのような超越意識(実際は自然意識)に入り、すべてが我にして、すべての出来事が信じられぬばかりの精緻と精巧な織物にして唯一なる目的への表現にかかせぬ部分であったことを知るだろう。一つであるとは、別の存在がないということだから、ただ調和と平和の中に愛があるだけである。これを美というのである。これを知ることを喜びというのである。ここに安らうことを解放というのである。したがって、瞑想できるようになるまでは耐えよ。忍耐と諦念を学び終えたならばゴールは近い。しかしゴールが我であることに腹落ちするまでは、この世にありながら霊的な道を辿るという険しい試練の連続であるが、そのような道を辿る機会が与えられた稀なる幸運に平伏し、道案内人である魂にひたすら従い、家を明渡し、そして家出せよ。
