保守とリベラル

目に見える世界は実在ではないが、それを実在と受け入れるならば、分離を受け入れることになり、そこに避けがたく恐怖が生まれる。その分離した世界の一個人として、様々な脅威にさらされることになるだろう。霊的教師は、「その私とは誰か突き止めなさい」と言ったが、一体性を知る前に突き止めようとすることは、頭で考えることに他ならず、理論と苦痛以上のなにものも生み出さないだろう。「私は在る」という感覚と共に在ることの方が教えとしては優れているが、ある段階にさしかかるまでは、「私は在る」もまた頭で考えられるものである。事実は、頭が停止した後、「私は在る」が知られる。この真の私は、普遍的で、総合的で、ただただ美しく愛に溢れている。ゆえに、分離を受け入れる無知も自然と防がれ、源における一つの我への賛美歌のみがその沈黙の中で歌われている。すると、毎日が、あるいは毎瞬が、この上なく美しいものとなる。分離分割された形態の世界から自由となり、永遠にして普遍なる一へと意識が回帰するとき、この世の話は終わり、天上の神話だけが復活する。ここが真のユートピアである。

この侵されえぬ理想郷が現実にならない理由は、低位マインドがまだ活発だからである。たとえば「私はどうすればいいのか」と低位マインドから思考が生まれたとき、人はその疑問を自分の疑問として同一化し、頭で解き明かす娯楽にのめり込み、永遠に頭の世界に生きるのである。一方で私はそのようなマインドが停止しているゆえ、煩わされることなくひたすら一に喜び、全への愛に没頭できる。自慢しているのではなく、単純な違いを示しているだけである。さらに興味深い事を言うならば、私は頭を停止させながら考えることができ、このように文章を書くことも可能である。無限に書くことができ、書くためのネタなど不要であり、頭で考える必要もないゆえ少しも疲労することがない。この天国を知るがゆえ、私はあなた方に頭の危険性を訴えているのである。低位マインドと同一化することの恐ろしさと、そこから抜け出した後の素晴らしさを訴えているのである。

昔は、低位マインドの統御の方法が分からなかった。だから分かるための例え話をしたいと思う。右翼的ないしは保守的な思想の人がいるだろう。「日本を守る」などと熱心に言うタイプの者たちである。日本を守るとは、日本を支配するのは日本人である自分たちであるという主張である。この抵抗を止めたならばどうなるだろうか。外国勢力に支配されるだろう。日本は消滅するだろう。我々の日本はなくなり、我々は日本人ではなくなるだろう。別の国に統治されることになるだろう。

これを自分に当てはめてほしい。「私」を守ろうとする自我が保守である。「私を守るのは私だけ」だと自我は言う。私であるために、他人という脅威から私を守ろうと分離して抵抗するのである。そのために他人より優れていなければならないと考え、あらゆる手段で武装し、恐怖に覚えている。そこには喜びなどありもしない。一方で、真の意味でのリベラルを知るとき、自我は私を守ろうという抵抗をしなくなる。分離や境界が争いの元であることを理解する。よって抵抗しないゆえに、私は別の存在に支配されることになる。実のところ、これが一体化と言われているものの実態であり、「守らなくてよい」という、自由や解放のためのコペルニクス的転回である。

あなた方は、自分に対して保守である。一方で私は、その自分に全面的に無関心であるゆえ放棄した。霊的勢力あるいは霊的侵略者を受け入れたのである。すると、ここは自我意識ではなく、天国意識になったのである。一言でいえば、抵抗しないとは、何もしないことである。日本を日本人が支配しようが、中国人が支配してそこを中国と宣言しようが、領土や土地そのものは影響を受けない。そこがアトランティス時代であれ、海に沈んでいるときであれ、浮上して島となるときであれ、日本と呼ばれる一時的な時代であれ、地球自体は影響を受けないのである。この延長で素直に考えてみて、私とは特定の誰かだろうか。それとも、永遠なるものの上の一時的な錯覚だろうか。私は簡単な話をしていると思いませんか。

この理屈を実践的な識別として意識に応用するとき、我々は無抵抗が実際は正解だったことを知るだろう。我々は自我に対して保守だが、その姿勢が真我なる一団の到来を妨げていたのである。無知な者は「私は私のものだ」と言う。ちょうど日本人が、地球の一部分に対して固執しているように、「ここは昔から日本であり、日本人のものだった」とか言うのである。そして、「私は昔から私だったから、私は私のものだ」とあなた方はずっと主張している状態である。もし普遍的な実在を知るならば、このような話で笑ってしまうだろう。「誰かのもの」などないことを、唯一なる真我が教えに来るだろう。あなたはあなたのものではない。あなたの名前が「山田愛」だとして、「私は山田愛です」と言わなくなる。それは笑い話になる。地球の地表の一部分を占領して、そこを日本と名づけて、そこに住む者を日本人と線引きして、「ここは日本で、先祖代々日本人のもので、いかなる侵略も許さないし、侵略する者には武器を向けることをも厭わない!」という保守の恐怖思想は、そのまま自我の国家的な反映でしかなく、未来においてはそういう未開な知性の時代があったことを微笑ましく思うだろう。賢い人から、そこは地球であり、どこも地球であることを教えてもらうべきである。すると、それを自分に置き換えたとき、私が特定の者でありうるだろうか。

マインドを通して物事を見るゆえに、こんな簡単なことも見えずに生きているのである。本当にあなたは日本人なのですか。その特定の名前の人なのですか。何の上に成り立って、そう言えているのですか。我々は、形態でも、それに付けられた名前でも、そうすることで分割された特定の個人でも、その特定の個人を守るために怯えながら生きる者でもない。そのような一時的な、見かけ的な、ごく表層的な、短絡的な、洗脳的な見方を、本当に信じ、指示していられるだろうか。どの国も幻想である。地球の特定の箇所に誰かが勝手につけた地名でしかない。だから、ニサルガダッタ・マハラジに「クリシュナムルティについてどう思いますか」と誰かが質問したとき、「クリシュナムルティとは住所だ」とマハラジは答えた。分かるだろうか。地球が一である。地球の部分に固執してどうしますか。霊的に言えば、我々を生かしている命が一である。その多様な顕現が個人である。あなたは命からすれば住所である。そのような仮相に執着する価値があるだろうか。あなたが、あなたに対して保守であるため、光の勢力が上から降りて来れないのである。だからといって受け身になれと言う意味ではない。瞑想で受け身になってアストラル界の邪悪な者たちに憑依されるのは愚か者である。夢見がちな少女のように受け入れ姿勢になれと言っているのではない。無知を識別し、無知と関わるなかれと言っているのである。具体的な例でいえば「私は山田愛だ」を無視しろということだ。「山田愛」は想念である。しかも強烈にイリュージョンである。何が「私」なのか。それは無知を識別し、無知な想念と関わりを持たず、袂を分かち、ただ素朴な、純粋な、誰かではなく、誰かのものでもない、純粋な私として静かに在るだけである。静かなとき心地よい。その心地よさに焦点を合わせるべきである。その内なる方向こそが、真我を指し示すヒントだが、それは方向だろうか。それをよく見たとき、それは方向ではなく、領土でも領域でもなく、私ではないのか。

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