中道

昨日、友達に瞑想を教えていたときに分かったことがある。「静かにしていても妄想が多くて瞑想になっていない」と言うのである。このような錯覚は多い。一言でこれに答えるならば、それでいい。「それは駄目だ」はあなたの解釈であり、実際は瞑想と逆行する抵抗である。妄想が出ようが関係ない。その背後に静けさは最初から在る。都会の騒がしい場所に行ったら疲れるだろう。逆に誰もいない自然に囲まれたのどかな公園のベンチやブランコに一人座るならば、静かで落ち着くだろう。その静けさの中に言いようもない心地よさが僅かに感じられるはずである。その静けさは公園が与えたものなのか、最初から在るものなのか。それを識別し、最初から在る静けさにだけ焦点を合わせてほしい。妄想は抵抗せず何もせずに放っておいてかまわない。我々は元来、静けさが好きな生き物である。魂的に若い場合はラジャスの配分が多いため必ずしもそうではないが、瞑想に価値を見い出すような者なら必ず静かであることの心地よさは分かる。その内なる静けさが心地よいためそこへ没頭することは、決して努力ではなく自発的な喜びである。ちょうど、その日の自我という役割に疲れ果て、やっと静かに眠ることができるとき、我々は睡眠という自我からの撤退に心地よい自発性をもってその流れに入るではないだろうか。同じことである。その静けさを愛するならば、あるとき突然、愛意識に入るだろう。自我は消え、意識は拡大し、既知なるものがすべて自身から生まれた幻想であったことを知るとともに、真の実在である我に至福の自由を知るだろう。

表面上の騒音はどうでもよく、何もしなくて良く、その背後の最初から在る静けさ、もしくは静寂への喜ばしき渇望に従うことは、何ら方法ではないが、これを瞑想法と呼ぶならば、これは世界で最も簡単な瞑想法であるに違いない。妄想に焦点を当てないならば、その背後に、背景に、その空白に、静寂や沈黙という名を与えるより他にないだろう。つまり最初から我々は静かなのである。その上にマインドが妄想を生み出してこようが、原初の静寂や沈黙は影響を受けること無くいつもそこに在る。これが分かるならば、ただそれと共に静かに在ればいい。静かにしようとするのではなく、最初から在る方の本物の静けさで在ればいい。これは瞑想と言うよりも、趣味である。努力と言うよりも、楽しみである。探求と言うよりも、眠りである。「する」に関わらない「存在」である。

瞑想を教えていた友達を、今日は仮に「山川愛」だとしよう。山川愛は、私の言うことは理解し納得した。しかし、自分にはそれができないようであると言った。妄想をどうにかしようとしないことが出来ないと言った。在るのは静寂ではなく妄想だと言った。妄想へ対処できないことを強調するのみだった。

このような時期は誰もが通るため落胆する必要はない。山川愛とその魂との結びつきがまだ弱いのである。それは、自分を山川愛だと思っているからなのだが、その大錯覚をかき消すほどの力ある来訪者が来れるほどの諸体の状態ではまだないという事実を言わねばならない。分かることも分からないという不可思議の状態である。しかし、理論的には、妄想のような表面のものではなく、その表面の後ろにある静けさに意識を向ける、あるいは妄想などを生み出す自身のエネルギーを静けさへ方向づける、という態度が正解であることを忘れてはならない。

簡略化すると、あなたに一つのエネルギーが流れている。それを妄想に向けるか、妄想の背後に在る静寂に向けるかの違いだけである。いま在るこの静寂の先が神だ。こちらが注目を向けることで、その深淵から覗き返すのは神だ。この世で放蕩していた我々を迎えてくれるのは内なる父だ。このお方に包まれねばならない。この大海に飲み込まれねばならない。ここにある静寂を通し、父に帰り着いたならば、もう安心である。もう一つである。もう調和という至福である。平和という自由である。愛という解放である。耐えられないばかりのまぶしき美である。真我あるいは神我という意識と存在に到達できる特権が誰にでもいま与えられていることの事実性に目醒め、真に無償で、これほどの素晴らしき宝を無限に分け与えてくれる神には、どれだけ感謝してもしきれないし、どれだけ平伏しても平伏しきれないほどである。

だから、この世の宗教の信徒が、拝んだり、礼拝したり、土下座のように頭を地面に押しつけたりするあの行為は、本来は見せかけのものではないのである。何かをくださいといって拝むのでもなければ、そのような決まりやしきたりだからといって特定の時間帯にお辞儀や礼拝をする義務でもない。平伏すとは、人間が神を知ったときの言葉に言い表しえぬ最大限の感謝とお礼とそれまでを悔いて改めようという気持ちとその素晴らしさへの圧倒をあらわす象徴でしかない。神を知らずに知った者の真似をしても意味はないのである。平伏すのは、肉体の行為ではなく、境地である。その後、神と神に平伏す者の一体化が許されるのである。この意味で、秘教徒は、第三イニシエーションに立ち会うのはサナット・クマラご自身であると言っている。こうして、サウロはパウロになる。山川愛も神になる。山は第三イニシエーションの象徴で、また川や海は第二イニシエーションの象徴であり、これらを通過した者があらわすのは神の愛である。なぜなら、媒体はそのとき愛に飲み込まれた愛の化身だからである。しかしその後、神の愛を運ぶのは神の意志の翼であることを学ばねばならないだろう。

「瞑想ができない」と決めつけて逃げるなかれ。逃げても構わないが、戻って来ることになるだろう。なぜなら、この世に逃げ場所はないからである。この世の経験の行き着く先は、全部不幸か苦痛である。もちろん、幸福と快楽も交互にやっては来る。この繰り返しの中で幸福や快楽という一方ばかりを求めているのが世の無知な兄弟たちである。彼らは、それら相反するものの間の「中道」が正解であり、どちらにも無関心になり、ぶれない領域へと双方から押し返された結果として中道しか道がなくなったという境地に至らねばならない。この意味を全く知らずにそのような名を利用する者たちもおり、またそれを信じたり支持する者たちもいるだろうが、この世にかまけて真我を忘れ、顕現の世界の相反する相対的領域であがき、瞑想という中道、静寂という中道、沈黙という中道、幸福にも不幸にもどちらにも無関心であるという聖なる中道つまり仏道へと真に入っている者はどこにいるのか。口だけならいくらでも中道は名乗れる。その道を実際に辿ったのだろうか。辿っているのだろうか。そこは恐ろしい道である。惨めで辛い孤独な道である。一人でしか通ることのできない細く切り立った暗い道である。足を踏み外せば奈落に転ずるが、注意深く真剣に歩むならばその先に永遠なる至福を知るだろう。人間の道で右にも左にも惑わされず、無常なる何ものにも執着せず、幻想を幻想としてただ関わりなく、幻想の中のひどく狭き見えにくい道、この中道を誘惑に負けずに最後まで歩み切った証が真我なる一である。

偽物ほど着飾る。偽を覆い隠すために善きものに隠れる。偽を本物に見せかけるために名や姿を立派にしようとする。そんなに本物が嫌いなのだろうか。そんなに偽に生きたいのだろうか。そうではあるまい。ただ迷っているに違いない。本物を忘れ、偽を本物と間違うまで錯覚してしまっただけに違いない。すべての自分つまり兄弟姉妹たちが我に返ってほしい。これを書いている最中にタイミングよく選挙カーが走ってきて笑ってしまったではないか。だから今日はもうこのくらいにして解散にしよう。

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