自我ファースト

昨日の記事で、少数野党の大同団結といった話に触れたが、そのような発想は「幼稚で非現実的」だという趣旨の反論を受けたため共に考えていきたい。

まず、大同団結できない主要な理由は、理念の差異なのだろうか。たとえば反グローバリズムならば、現在「新保守系」と括られるほとんどの政党は合流できる。問題は理念の差異ではなく、理念を自我が所有していることにあるのではなかろうか。一つの純粋なアイディアが個人のマインドを通過したとき、その個人によって独自の意見や主張や見解といったものに変換される。反グローバリズムもまた純粋なアイディアの部分的かつ表面的な解釈でしかない。そしてこの解釈は「幼稚」もしくは「浅はか」である。

繰り返すと、純粋なアイディアは本来一つであり、それは必ず国家的合理性とも一致する。しかしそれが各々の自我を通過する際、「我々の理念」「我々こそ正統」という帰属意識と結びつくのである。すると理念は共有されるべき原理ではなく、自己の正当性を支える象徴へと変質する。ここにイリュージョンとグラマーが見られるのである。

本来、団結とは共通の目的への従属である。しかし現状、自我にとっての団結は、「自分の解釈が唯一ではないと認めること」や「主導権を手放す可能性を受け入れること」を意味する。ここに脅威が生じる。知性では団結の必要性を理解していても、「自我ファースト」であるため、自身の解釈や主張の防衛が優先されるのである。つまり、彼らにとって重要なことは、実際は純粋なアイディアそのものを守ることでも実現することでもなく、解釈された理念と結びついた自分の正統性・自分の立場・自分の正しさを押し上げたり、維持させたり、成し遂げたりさせることが主な目的なのである。純粋な一なる目的ではなく、自分の目的にすり替わっているという構図である。もし魂とすら融合していない場合、この相対的に低いレベルの話でさえ、自身の話として真剣に考えられる知性はそもそもまだ開花していない。

結果、各政党の構成員ないしはリーダーたちは、仮に純度を守っているつもりであっても、実際には純度と自己を融合できないまま、自らの解釈を分離して固定する。ここに、譲れない自身の意見や主張への固執が誕生し、一つの純粋なアイディアの実現よりも、自らが正統であることの維持とその権力的な実現が無意識的に優先されるのである。

まとめると、大同団結を妨げている根底の原因は、目的や解釈の差異と言うよりも、自我のフィルターを通した後の解釈・意見・主張・思想といったものを自身が輝くための所有物とする自我の構造にある。

一方で、瞑想でマインドを超越するような弟子やイニシエートたちは、神の計画や目的に触れ、その純粋な一なるアイディアに対して一致団結し、喜んで従属している。これは無私であるゆえ接触できるアイディアであり、また無私であるゆえ純度を保ったまま顕現に結びつける力を保持するものである。自我はアイディアを解釈として所有し意見と主張にすり替えるが、自我を超越した方々は分離した自己にも、またその小さな自己の解釈にも仕えることはない。ゆえに一つの目的に対して表現や手法は異なっても純度を損なうことなく多様なジャンルから大同団結できているのである。彼らが行っていることが真の政治であり、自我たちが行っていることは理念を隠れ蓑にしたただの権力闘争である。だから団結できないのである。また団結させる力もないのである。

「自我ファースト」は奉仕ではなく、神性の表現でもなければ神の計画に寄与するものでもないため、これに気づいた弟子たちは、自我を放棄することで真我を受け入れ、「神ファースト」を実現する。それは「アメリカ・ファースト」や「日本ファースト」などの限定を作らない「全我ファースト」であり、これだけがすべての意識と生命たちを真の意味で幸福に、そして豊かにするものである。そこでは意見の不一致も論争も離合集散も存在しない。活動する形態や意識には分離や進化段階はあるが、一つの生命、一つの目的、一つのエネルギーの流れにおいて合流したままであるため、媒体がその根源の純粋さや法則から逸脱することはなく、一体ゆえの愛で各々が結びついている。

そして、惑星の平和と調和は結果の世界を扱うことによってではなく、原因の世界を扱うことによって達成される。グローバリズムというものはすでに結実した特定のフォースの結果であって、撲滅したところで別のイデオロギーやアイディアを乗っ取りふたたび別の形で活動するだけである。目に見える形態や、結果の世界で起きる現象を本物だと思っているかぎり「幼稚」になる。形態活動や出来事の背後には何らかのフォースが存在し、働きかけるのはフォースと質料である。たとえば、刀はこの世の形態を斬ることはできても、刀を成立させているエネルギーや質料を斬ることはできない。結果は原因に勝てない。波動が違うのだから触れることすらできない。理屈が分かった者は、エネルギーとフォースの世界を理解すべく、まず自身というフォース体を高位のエネルギーに従属させる術を瞑想で身につけるべきである。このようにして、「舞台裏で働く」ことの意義に精通し、実際にその領域で実践的にならねばならない。このようにして、見習いの弟子ではなく、見習いのオカルティストになるだろう。隠れたもの、目に見えぬものを扱い、二次的に結果の世界に必然的な効果を及ぼす知的な意識単位になるであろう。このとき、すべての真の弟子やイニシエートたちが大同団結していることを知るだろう。と同時に、なぜ人間や人格や自我たちが団結できないのか、何の期待にも応えられないのか、無力で無能なのか、その理由を知っているだろう。

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