魂とはサットチットアーナンダのチットまたは観照者、背後で気づいている者のことを仰っているのかと思うのですが、相違ないでしょうか?
「サット・チット・アーナンダ」は存在の三様相を示すための分類ではない。それはある段階のイニシエート意識を説明するときのものである。対して、「霊(spirit)・魂(soul)・肉体(body)」は、ジュワル・クールもしくは初期の神智学の教師であるブラヴァツキーが西洋向けに教えを提示する際にキリスト教との整合性あるいは可読性を確保するために便宜的に用いた存在の三分類である。いくつか引用を並べる。
私達は、生命とは物質と言われているものに現れている”存在の唯一の形体”と考えている。あるいは人間に関して言うと、私達は、生命を霊、魂、物質と間違って分けてしまうのである。物質はこの存在界に魂が現れるための媒体であり、魂は霊が現れるためのより高い界での媒体である。そしてこの三つは、それぞれに遍満している生命によって総合される三位一体である。
H・P・ブラヴァツキー「シークレット・ドクトリン」p.256
人間の霊は神の生命と一体であり、その人の内にあり、その人の魂の奥深くに座を占めている。それは人間の魂が肉体の内に座を占めているのと同じである。
ジュワル・クール「秘教心理学・第一巻」p.94
これら他人の話を無視して答えると、「観照者、背後で気づいている者」と、私の言う魂は関係がある、と言うに留めておく。最も重要なのは、固定の概念で捉えないことである。最初は仕方ないが、実際は固定ではない。だから、私は定義は好まない。言い換えるとマインドを通した後の話に拘りを持たない。そのレベルで留まって終わる者が何万人もいるからそれでは困る。彼らは研究者として読書で一生を過ごす。彼らはしたがって実践的ではない。私は実践にしか興味がない。もし瞑想し奉仕するならば、私が魂と呼ぶものに接近し接触したとき、それが魂であることを瞬時に理解するだろう。逆に魂が何を意味するのかをマインドで把握しようとすることは、魂の認識から遠ざかることを一時的に意味するだろう。それを続けるならば永遠に遠ざかるという意味である。言い換えるとマインドを強調することから我々は離脱しなければならないのである。だから推奨できない。
魂の統御について……魂というものが観照者、背後で気づいている者という前提でお聞きしますが、なぜ観照しているだけの者に統御などというものが可能になるのでしょうか?
頭で考えるときこういう迷路にぶち当たる。分割したものに整合性を持たせようとするときに無理が生じる。自らの解釈で固定した概念同士の組み合わせで謎を紐解こうとするときシンプルな実在は永遠の神秘になる。
これは個人の観点からの質問である。つまり、「行為」という観点である。我々が「行為」から自由な意識に戻るとき、「統御する特定の者」というものはない。魂のエネルギー自体が、「統御」という概念が示す行為をしているだけであることを我々は発見するだろう。その意味において、行為者は自分ではなく魂になる。個人は行為者ではなくなる。そのような錯覚からは自由になる。以上は目に見える我々の世界からすれば「原因の世界」の話であるが、それは依然として現象の世界での話である。とはいえ、我々が第二イニシエーションに近づくような意識であるとき、このようなエネルギーは自在にこの世界で利用・活用できるもになるであろう。それは操作可能なものになるであろう。これらはすべて観点の違い、つまりどこに意識を置いて語るかの違いである。
自分を外観と同一化している限り、メンタル原理の様相は自分の中に「分離という大いなる異端」を生み出す。……彼は特質と価値の世界に入り、魂の性質を発見し始め、強調点を外観から、それを生み出す生命の特質へと移行させ始める。特質と外観の一体化は道において着実に成長し、特質と外観、エネルギーとエネルギーが活性化するものとの融合は完全になり、外観がリアリティーを覆い隠すことはなくなる。そのとき、魂が支配的な要素である。意識はいま、その現象的な外観とではなく、意識そのもの(つまりその光線)と同一化している。
ジュワル・クール「秘教心理学1 」p.71
パーソナリティー意識の観点からすれば、魂を別の存在として最初は分離認識するが、その魂のエネルギーを、解放のために意識的に利用したり方向づけたりすることが可能になる。このときまだ分離がある。エネルギーとフォースという分離がある。エネルギーとエネルギーが活性化するものとの分離がある。魂と魂でない私という抵抗がある。ひとたび魂のエネルギーが、我々の分離意識の原因であるフォースを統御し終えたとき、エネルギーとそれに統御されるフォースという分離はなくなり、すべてとの調和が達成され、魂的な一体意識が自然のものになる。それは三界のどのようなものとも関係を持たないが、媒体が媒体の世界で活動するときは、それがどの世界であれ、その世界について気づいているという意味においては「観照者、背後で気づいている者」である。しかし、世界とその観照者は切り離されており、関係を持っておらず、自由であり、関心の対象ではなく無関心の対象でしかない。したがってそれは、三界(つまり我々の認識世界)の何とも関係しないこと、三界の何にも影響を受けぬこと、三界から孤立して自由であること、これらを言い換えると、魂が物質ではなく魂自身に集中している意識において、魂の特質である喜びが顕著になる。特質が外に向けられたときは愛である。しかし、魂がさらに霊に統御されるようになったとき、霊の特質である至福が顕著になる。このときの存在の状態を「サット・チット・アーナンダ」と言うことができるだろう。
ラマナ・マハルシの比喩から
A passenger in a train keeps his luggage on his head.He thinks that the train will not carry his luggage.Why should he carry it himself? Let him put it down; the train will carry it.
(列車の乗客が、自分の荷物を頭に乗せたままでいる。彼は、列車は自分の荷物を運んではくれないと思っている。なぜ自分でそれを担ぐ必要があるのか。下に置けばよい。列車がそれを運ぶのだ)
Similarly, you think that you are doing actions.Whereas the power that created you is carrying on all activities.You are not the doer.
(同様に、あなたは自分が行為をしていると思っている。しかし、あなたを創ったその力が、すべての活動を担っている。あなたは行為者ではない)
これは、前回書いた記事「非精神化」と同じ話であるが、我々にこの種の話が通用しないのは、我々にはまだ列車が来ていないからである。明確にどの段階と言うことはできないが、少なくとも第二段階のイニシエートになる前にはこの列車が現れる。それはパーソナリティーと魂の間の架け橋(アンターカラナの前半)を繋いだからである。聖人の本の欠点を言うならば、こういう途中の話が書いてないことである。イニシエートには列車は来ており、さらに列車と乗客という分離も失っているため、自身の意識現実から当たり前の事実を話すのだが、実際はその途中の話が存在し、それらが達成されていない場合は列車の喩えのような話もまた自我意識にとっては事実ではないのである。いわゆる「達成した後だから言える話」に属するが、だからといって事実を隠しておくわけにもいかない。この話を覚えておくことで、実践の後、「こういうことだったのか」という理解につながるだろう。
魂が最初の列車である。ラマナの「サット・チット・アーナンダ」はその後に来る列車と関係しているが、だからといってこの話の全体像が損なわれるわけではない。魂が来た後、例えばこの質問者は存在しなくなる。パーソナリティーの側面を復活させることはいつでもできるし、三界でそれを道具にして活動することも可能(と言うよりも諸体はこのとき三界で活動するときの道具でしかなくなるという意味)だが、意識においては関係のない存在のままである。動かしている列車が本物である。「荷物」は乗客が作り出した幻想である。乗客が列車に身を委ねたとき、頭に乗せた荷物の話は意識の中から消える。「非精神化」の文脈で言えば、精神を「下に置けばよい」ことを理解したあと、「今日も会社に行くのが億劫」などの荷物は存在できなくなる。別の比喩で言えば、冷たい水にお湯を注いだ後、冷たさは存在できなくなる。ただしお湯が注がれていない場合は冷たいままであり、冷たさが現実である。
私はよく伝導体という言葉を書物から借用しているが、実際にそれまでとは別の様々なエネルギーがその者に流れ込むようになる。最初は魂のエネルギーだけである。この話もほとんどどの書物には書いてない。それで私は自分が病気だと考えざるをえなかった時期がある。というのも、知識がなかったため、脳が動いているとしか考えようがなかったからである。頭の内側と言えば脳しか思いつかなかったのである。エーテル体の知識も波動の知識もないと、このようなことになる。だから、このような列車の話とか、その列車を具体的な話として置き換えてくれる話に出会うまでは、魂のエネルギーは理解されることもなく、ただ苦痛として認識され、抵抗の対象でしかなかったのである。しかし、エネルギーとフォースを融合させるという教えに出会ったあと、「なんだそういうことか」となる。あとは簡単なことだったし何もする必要がなかった。荷物を下に置いたからである。したがって、「達成した後だから言える話」は役立たないわけではない。ただし、達成までの過程を抜きに語るならば、それは当時の私のような普通の自我意識にとっては永遠に理解不能な話になる。だからその中間の話ばかり私は書いているのである。霊の話ではなく魂の話をしているのである。
魂とは何か。その列車が来るに値する駅になるまでおのれを磨くことが先になる。これは自我意識におけるいわゆる「見習いの道」であり、ここは避けて通れない。この時期、列車にすでに乗った後の人の話を学ぶが、まだ自身にとっては現実にはならない。まず、列車が来るための駅に値すると認定される必要がある。それは正しい人格と関係している。したがって見習いの道では正しい人格の構築がその初期段階での目標である。道が遠いと錯覚する必要はないが、その道を避けて道には入れない。完璧な人間の体現は全く無理だが、周囲の評価とは関係なしに、確実に正しい人間になっていなければならない。それは無害性の実践であったり、心からの礼節の学びであったり、善意の奉仕活動であったり、この世の倫理や道徳と多少関係するレベルの話である。同時に識別力を発達させ、正しい師の識別――この段階における平均的な日本人の場合は正しい書物の識別が必要となり、そのような書物から学ぶことに普通はなるだろう。私がその時期に読んだのはいつも言うように順番で言えばクリシュナムルティ、ラマナ・マハルシ、ニサルガダッタ・マハラジ、アリス・ベイリーだったと思うが、ベイリーの本つまりジュワル・クールのものが結論としては最高である。その他の三人の本は、補うためには良いものであるが、ベイリーの本も含めて単独で学ぶならばバランスを失う可能性が高いと私は思う。安定していない器つまり駅には魂は来ない。
ただし安定していなくても霊的事象が起きる例外がある。
- 前の生涯で達成しているから早急に復習しているだけである場合。この場合、人格が未熟であるにも関わらず若くして訪れる。たとえば物心ついたときにはすでに接触しているなど。
- 無理矢理に引き起こした場合。魂が来ていないのにクンダリーニの火を覚醒させるなどである。これは憑依や発狂や自殺といったアストラル的な破滅にしか導かない。悪意はなくてもなぜか起きた例もある。クンダリーニに関しては、ゴーピ・クリシュナの本を読むと時期尚早な火の目醒めがいかに危険であるかを確認できるだろう。あれは、通常は物質界とアストラル界の境界に網があるが、それが時期尚早に破られたことで、物質界とアストラル界がその意識において同時に存在することになったのだろうと推測される。通常はそこから生還できないだろうが、彼は生還したため、貴重な体験談を書いて世に出している。
- イニシエートのそばにいつもいる場合。いわゆるサットサンが日常である場合、まだ低い段階でも安全に高い意識に到達したり、魂のエネルギーの伝導体になったりする。これはその師が賢明でなければならず、また責任を持たねばならない。つまり、イニシエートでない伝導体の弟子もまた、自身が周囲に霊的な放射的影響を与えていることを認識しなければならない。
一つ目と三つ目は通常は安全であるが、二つ目は危険である。だから、世の中の権威ある方の教えを真に受けて、何も知らずに勝手な呼吸法を実践したり、長時間瞑想をしたり、何らかの無理なことをしないように私は常にお願いしてきた。ジュワル・クールがよく言うように、この段階では一般社会での常識やバランスが役立つ。安易に教えを受け入れる姿勢よりも、猜疑心や疑念を失わない姿勢の方が賢明かつ安全である。しかし、自身の瞑想という実践において認めざるをえなくなったものに関しては、前の記事の比喩でいえば、武装解除すべきである。でないと苦痛に絶えられないだろうし、病気になってしまうだろう。つまり列車が来た後は、その列車に我を明け渡さねば、逆に危険になる。そしてさらに言えば、列車が国境をまたいだ後、つまり人間王国と霊的王国の一線を超えた後、二重国籍を持つことは不可能になることを言っておく必要があるだろう。アストラル界の教えによくあるものだが、霊的な良い部分を個人に取り入れて良い人生を送りましょうというものである。霊的王国の身分を保持したまま人間を条件づける退化のエレメンタルに奉仕するということはありえない。笑い話にもならない。霊的国籍すなわち分離を超えて一体性に至った後、どうして個人の住所で生きれるであろうか。正しい意識において二重国籍は実際には不可能になるゆえ、霊的世界で得た恩恵を、自我のために利用するということはできないし許されてもいない。無理やりすることはできるが、大変な危険なことになる。その代わり、霊的に得た良いものは、すべての兄弟姉妹と分かち合われねばならないことを知るだろう。新しい国で得られるようになった恩恵を、まだ恩恵が得られていない魂の同胞たちにあまねく行き渡らせる義務と喜びが発生することを知るだろう。これは、神の愛の後に、神の意志と接触したときからそのようになるだろう。個人の目的はなくなる。それはありえない。分離した自我の生きる目的には興味がなくなる。その自分はいなくなる。確認することもできなくなる。この源における一体性の認識は魂ではなく霊と関係している。つまり「サット・チット・アーナンダ」と関係している。
