- ここのところの記事で「奉仕」について多く語られております。私が本格的に瞑想を始めて6年になりますが、改めてその動機を内省した場合、自我である私の幸福を求めることがその動機であり、その目的であることがはっきりしております。私の中に巣くう、不平や不満、そして初期設定のように常に感じられる正体不明の不安や哀しみ、これらを何とかしたい、そして直感的に霊的な世界に解決策があるのではないかという思いがその動機となっております。そしてこの世の価値観に対し、多くの違和感やうさん臭さを感じ、そこから離脱したいという自由への渇望が瞑想への燃料となっております。それゆえ奉仕という概念は私には切実に感じられませんし、奉仕という概念に嫌悪すら感じます。私が感じている奉仕とは、せいぜいが食料や衣料、水などの基本的な資源が不足しているところに寄付をして助力をする程度であり、それを超えての奉仕については、私から遠い世界に感じられ、まったく目指す気すら起きないのです。このような動機は変えようもなく、苦しみからの離脱(これは突き詰めれば、672夜様がしばしば語られるように、この世でみじめな自分が霊的世界に逃避しているということかもしれません)が瞑想の動機なのです。672夜様は、このような動機のもとに瞑想をすることの危険を語られております。私はこのまま瞑想を続けるべきでしょうか?
この質問は自我の質問である。性質上、自我は弱く、その弱さを解決する能力も持たない。何をするにしても動機は常に自我のものである。魂に到達するまで、その自我が消え去ることはない。ゆえに問題なのは、自我の時期になるだけ自身を情緒的もしくはメンタル的に正しさから逸脱させないようにすることである。クリシュナムルティはこの時期に役立つだろう。自我の構造を容赦なく白日の下に晒し上げてくれるからである。
私も似たようなもので、苦痛さえなくなればよかった。だから悟りにも興味がなければ奉仕にも興味がなかった。このような無知であったゆえ、私は一時的に瞑想に専念する生き方を上の判断で切断された時期があり、他人のためだけに生きることを学ばされるという体験を強制的に数年はさせられた。そこで学んだのは、自分のために霊的エネルギーは流れていないということであった。別の例でいえば、前にこういう人がいた。シンガーソングライターと自称していたと思うが、他の人のために作ったらそれがよく売れたと言うのである。で、次からは一回も売れなかったと言うのである。つまりもっと売れるためとか、もっと人気が出るためとか、自分のために歌を作り出したからである。人間に流れる生命エネルギーというものは、自分のために使用するものではなく、自分のために使用するときは「力が出ない」ようになっている。こういうことは、本来、子供のうちに教えられるべきであるが、現在のところ、そのような科学的な、あるいは物理学的な学問を教える学校は存在していないだろう。逆に言えば、自分ではなく、兄弟姉妹のためだけに生きる時、その者の真価は数百倍ではきかなくなるだろう。真価を重んじた結果、進化するが、偽りや無価値を重んじて生きた場合、退化と関係することになり、真価も進化も阻害されるのである。
最近の記事で奉仕について書く機会が多かったのは、ほどんどの人がこのような事実を知らず、霊的進化とは真逆の退化の力に方向づけられ、そこが分からぬがゆえに、「進歩のない駄目な自分」に落胆したり嘆いたりしている方が多いと感じたからである。自我とは、自分に夢中であるため、小さな自分にしか興味がなく、奉仕をする余裕はない。またあなたが仰る通り、一般的な奉仕は嫌悪感を抱かせるようなレベルのものが多いかもしれない。それは魂の奉仕とは依然として関係のないものであるが、実際的には、いわゆる奉仕活動であれ、たしかあなたのような弁護士であれ、医師であれ、看護師であれ、何でもいいのだが、あらゆる職業が、誰かや何かの困難の役に立っている限りにおいて奉仕的であることを否定することはできないし、実際にそれが奉仕になっている。普通の人に流れ込むエネルギーは少量であるため、家族への奉仕や自身のメンタル体の開花やその応用としての事業の成功などによる奉仕で十分であるが、瞑想するような者に流れるエネルギーは、その者の進化段階に応じてより多いものになる。つまり、より大きな義務が生じ、より霊的に、より純粋な奉仕が必要になることを決して忘れてはならない。
逆転させて考えることが重要である。自分が苦しいとき、自分の苦しさをどうにかしようとするのではなく、瞑想と必ず並行させて、他の苦しんでいる人の助けになることだけに集中するのである。すると、自分の苦しさがなくなっていることを発見するだろう。もしその奉仕が自分の苦しさをなくすためという動機でないならば。
結局のところ、瞑想で発見することは、他人などいないということである。本質において全部自分と同一である。これを書いている媒体とあなたという媒体は異なる意識と形態を持つが、その背後の本質つまり生命においては完全に同じものなのである。この真我を自分と理解した場合、すべてが私である。意識においてもこれが事実になるゆえ、もし間違った自分だけに奉仕を限定するならば、ちょうど富の独占欲に集中しているこの世の方たちのように、自身の苦悩はより大きなもの、手に負えないものになるだろう。この事実を知って、その無意味さを知って、自分のことなどもはやどうにもならないのだからどうでもいい、という進歩的な開き直りに至り、自分はいいから他の人の苦しみのためだけに生きようという意志が芽生えるならば、副次的にだが数百倍の速度で進歩し、自分の進歩や自分の苦悩といった話を奉仕で忘れているうちに、勝手に進歩し、勝手に苦悩は超越されていたことを知るだろう。自分のことに集中するならば、自縛で自爆する。それをやめて、瞑想と並行しつつ、他の苦しんでいる兄弟姉妹のことだけに集中するならば、解放される。これを人類つまり自我たちは現在のところ知らないのである。分かると自作自演で維持されている自我が壊されることを本能的には知っているからである。瞑想と奉仕がセット、もしくは欠かせぬ両輪であることを理解せねばならない。私はかなり実践的な話をしているつもりである。
瞑想は、あなたが以前に自身の霊的状態について述べていた通り、高位のエネルギーを流入させる。にも関わらず、それを奉仕に活用しないのであれば、病気になってしまうだろう。自我のせいで適切にエネルギーが循環できず、内部で腐敗し、その者に破壊作用をもたらすのである。瞑想で精神異常をきたすような者の多くがこのことを知らないためにその種の疾患で脱落していく。こういう無知を未然に防がねばならない。
2.「真我は心とは無関係です。この世の常識で自分を測ったり、縛ったりしないでください。自らを解放し、穏やかに、静かに、小さな自分のためには何も求めることなく、心の動きに惑わされず、ただそのままの自分で在ってください」。上記は2025年2月22にUPされた「弱い心でいい」の項目7の一部分です。この中に記載されている「ただそのままの自分で在ってください。」ということはどういう意味なのでしょうか?具体的にはどうすることなのでしょうか?
「する」ではない。ここで別の方のメールの内容も同時に考えたい。
疑問は多々ありますが、僕も概念による抽象的な理解に留まりたいとは思わないので、これ以上の質問は止めようと思います。引き続き在ることだけに専念しようと思います。
「在る」は「する」ではない。ちなみに、「概念による抽象的な理解」もまた「具体的」なものである。概念である以上はすべて具体的なものである。したがって解釈であり、間違わざるをえないものであり、無意味なのである。我々は、「在る」が自我においては「すること」や「専念すること」になるという問題について真剣に考えねばならない。何の違いであろうか。自我と魂の違いである。自我は自身という騒音に悩まされている。また、それを自分で解決できると錯覚している。実際は、騒音の上に騒音を置くだけになる。その背後の「在る」は分からない。実際はいま「在る」のに、なぜかそれが分からないという不可思議が生じる。「在る」の上のマインドやその影である自我がクローズアップされているからである。この意味においても、いかに自我への強調をなくすかという点において、奉仕が優れたものであるかが理解されるはずである。奉仕に専念している者は、自分のことはどうでもいいと思っている。こうして、数百倍の速度で進歩するのである。彼らがそうするのは、すでに自我や精神の限界を学んだからである。また、奉仕することが他の何よりも喜びをもたらすことを知り始めたからである。こうして、その者の人生は神の喜びの表現になりゆくが、だからといって兄弟姉妹の苦悩に対する敏感さが削がれることはない。
「する」を無くす力が自身の内部で勝るようになったとき、「する」が失われ、残ったものが「在る」である。言い換えると、真我が自我に働きかけられるほど波動が高くなったとき、自我は失われ、残ったものが真我である。霊は、魂を通してこれを行う。ゆえに、パーソナリティーからすれば、魂からの働きかけをエネルギー的に認識するようになる。そういえば、あなたは伝導体になっていたはずである。魂のエネルギーはどうなっているのですか。返信をください。
3. 以前私が、672夜様に直接お会いして瞑想のやり方やそれに関するお話をしたいと申し出たところ、672夜様から拒否されました。ところが記事によると、672夜様は、おそらくは親しいと思われる他人に瞑想の指導や治療のようなこともされているようです。これは単純に「縁」の問題なのでしょうか?それとも何かほかに理由があるのでしょうか?
- あなたは独学と霊的な自立を達成できる段階の生涯にある。たとえ失敗しても、次の生涯つまり次の別の人間のときに可能になるだろう。ゆえに重要なのは、その自分を魂によって滅することだけである。
- 私が話すことで共に学んだり治療したりする者は、近しい者であり、ゆえに肉体同士の接触を私は拒否できない。また、彼らや彼女たちの多くは、霊的な独り立ちが今生では無理だからである。
- 基本事項として、私は助けにならない助けをするわけにはいかない。依存する傾向をまだ持つ者の場合はなおさらである。特定の誰かのことを言っているわけではないが、たとえば第六光線のパーソナリティーとはあまり関わりたくない。分離意識を助長させ、その者の魂の計画をいとも容易く邪魔することになるだろう。
- まだあるが、それはカルマや、3で述べた「その者の魂の計画」と関係する話であるため詳述は避ける。
4. 672夜の著者は複数人いらっしゃるのでしょうか? といいますのは記事によって明らかに文体が異なるものがあり、また時折明かされる著者の背景事情に整合性が取れないように思われる点を感じます。
672夜に関していえば私だけである。文体の指紋はいくらでも消せるし、いくらでも別人格が書いたような文体で書くことができる。たとえば、私がよく使用しているのは第一光線と第四光線と第二光線のエネルギーだが、それらの配分を変えるだけで別人が書いたように見えるであろう。誰に対して、あるいはどのような意図によって書くかで配分は変わるし、変えたほうが適切なアプローチになりうるし、必要であれば第五光線や第三光線といった通常とは別の力を借りることも可能である。私のアストラル体は第六光線だが、これを使用して、世の中でベストセラーになるような本を書くことも可能かもしれないが、決してそのようなことはしないだろう。つまり、兄弟姉妹の弱点をくすぐってやることで騙したり洗脳したりして、収入を得るだとか、個人の都合のために光線やエネルギーを使用することはない。
背景事情については分からない。記憶の間違いはあるかもしれないが、意味もなく嘘を書くことはない。例外として、個人のプライバシーや心情などを考える際に、彼を彼女に変えたり、その人に自分の話だと思われないようにしたり、傷つけないための措置を取ることはある。伝えるべき内容や趣旨が分かればよいため、話題という素材に関しては誰かに害を及ぼさぬかぎり、あまり問題だとは思わない。
次は再び前の質問者の文章についてだが、これに返信はいりません。
魂はマインドで捉えられるものではないということは理解しました。
魂は最初、マインドで捉えられるものです。マインドが遮ることがなくなったとき、私と魂という分離認識はなくなります。それまでは、マインドで認識した魂とそのエネルギーに自身を方向づけるという新しい作業が必要になります。
気をつけなければならないのは、いわゆる「マインド」という記述が本にある場合、それはジュワル・クールの概念体系で言えば具体マインドつまり低位マインドのことを指しているという点です。それを超越しても高位マインドがあり、さらに普遍マインドがあり、いわゆる第三様相――マナスの様相も無限であることが推察されます。
