「今日は憂鬱で起きたくない。もう少し眠っていたい」
私たちは時折、そのように感じます。けれども、真の自己は一度として憂鬱を経験したことがありません。にもかかわらず、自我にはなぜ憂鬱が生じるのでしょうか。それはおそらく、過去の記憶と、その記憶から投影された未来予測が織りなす影ゆえではないでしょうか。
私たちは、面白みのない日々、あるいは望ましくない出来事の繰り返しが、今日もまた始まると考えます。しかし仮に、目覚めたときに記憶を失っていたならどうでしょう。自分が誰で、ここがどこで、何が起きたのかもわからない。不安は湧き上がりますが、それは「私」が消えたからではなく、過去の連続性を失ったからです。未来を予測できないことが、恐れを生むのです。
もし見知らぬ部屋に閉じ込められていたなら、私たちは周囲の状況から出来事を推測し、これから起こるかもしれないことを想像します。安心を得るために、状況証拠を組み立て、出来上がった結論に応じて、希望を持ったり絶望したりします。私たちは常に、未来を把握することで安全を得ようとしているのです。恐れないために、憂鬱にならないために、安全で快適な未来を確保することが人生になっているのです。
では、記憶もなく、想像を生み出すマインドも働いていないとしたらどうでしょうか。そこには、置かれた状況にかかわらず、「純粋な私」だけが在ることでしょう。希望も恐怖も生み出されず、陰気も陽気もありません。情緒的な相反する極の中道において、意識は妨げられることなく本来の静けさへと落ち着きます。
そのとき、何が起ころうとも内なる平衡は揺らぎません。そこにあるのは、過去や未来、状況や環境に依存しない人知を超えた平和です。時空間そのものが消えたとしても損なわれない静かな至福。それは「私はそれである(I AM THAT)」という自己認識に根ざした純粋な意識のことです。
この意識は、特別な状態としてのみ存在するものではありません。日常生活のただ中でも保たれ得るものです。マインドという道具を使いながら文章を書いている今も、その静かな至福は奪われていません。記憶を用い、思考を働かせ、身体が行為しているように見えても、内側では自由が失われていない。過去や未来に触れても、常に「永遠の現在」と呼ばれる定位置へと戻り、真の自己を見失うことなく、途切れることのない至福と喜びに満ち満ちています。
違いはどこにあるのでしょうか。私たちは通常、記憶やマインドと自己を同一化し、時間の流れの中で生きています。しかしもし、マインドを超越した意識から道具を支配できるなら、道具と自己を混同することなく、真の自己と同一化したまま、道具を用いることが可能になるのではないでしょうか。
私たちは長いあいだ、道具の引力に無自覚に従ってきました。しかし、その無知に光が当たるとき、道具から離そうとする力もまた働いていることに気づくでしょう。この内的な斥力は、真の自己へと回帰させる流れのことです。その流れに身を委ねるとき、意識はもともと在った自己へと安らぎます。既知のすべてが失われても失われない自己、時間の外に在る永遠の自己へと安らぐことでしょう。この調和、すべてが一つなるものに収まること、その一が私であること、この認識に基づく存在の状態こそが、真の平和であり、自由であり、解放なのではないでしょうか。
ここから明らかなのは、情緒や想念という道具ではなく、真の自己を見いだすことが何よりも先決だということです。そうして初めて、私たちは運命の犠牲者ではなく、支配者になり得るのではないでしょうか。それは運命を自由に操る能力ではなく、運命の中で何が起きようとも、起きたことから影響を受けない能力のことを意味しています。
私たちは道具に支配されることもできれば、道具を支配することもできます。条件づけに従うままでいることもできれば、条件づけから自由になることもできるのです。
この転換は、瞑想と奉仕によって成熟します。それは具体的な手順を積み重ねるのではなく、新しいエネルギーの流入と、その純粋な流出に身を開くことを意味しています。マインドは具体を求めます。方法や形を知りたがります。しかし瞑想は具体からの解放であり、奉仕は具体以前における抽象的なアイディアへの自然な応答のことなのです。
「する」ことで到達しようとする態度の背後には、なお未来に安心を求めるマインドがあります。それに対して「在る」とは、時間ではなく現在、もとよりある存在そのものです。「在ろうとする」のではなく、「在る」ことに気づくこと。その妨げとなっているものを見抜くこと。それを明らかにするのが瞑想であり、瞑想が導く魂です。
「する」と「在る」のあいだに横たわるもの、自我と真我を隔てているもの。それは、マインドが映し出している錯覚にほかなりません。瞑想と学習が成熟し、理解が深まるにつれて、新しい力によって、古い錯覚は静かに力を失い、もとより在った一なる平和が自然に現れてくるのです。
