説明すれば長くなるため簡潔に言うと、昨日、ある場所のある店で、レジに店員が三人いたが、いずれも日本語の通じぬ者であり、英語でしかやり取りができなかった。私はある商品を探していると伝えたが、商品名が音的に分かりにくかったため、レジのアジア系の女が理解しなかった。日本にいて日本語を話す者のおらぬ店も困ったものだと思いつつ、踵を返して別の店に行こうとしたとき、その女が、「あなたは何人ですか」と言ってきた。どういう意図で訊いているのか判然としなかったが、昔から純粋な日本人なのかと聞かれることも多かったゆえ、そのつど日本人だと答えねばならないのだが、昨日は間違えて、「天国人」だと答えてしまった。すぐに日本人だと言い直したが、肉体からそのような言葉が出てきたことに驚いた。隣に妻がいたならば、一生、家庭内でネタにされ続けるハメになっていただろう。
もともと、生まれたときから私は自分が特定の国の者であるという感覚を持たなかった。スポーツで日韓戦だとかオリンピックだとか、日本人だから応援するという気になったこともなかった。「国と国との威信をかけた戦い」などの煽りは輪をかけて馬鹿馬鹿しく苦痛だった。また、自分が日本人と言わねばならぬことも嫌だった。ゆえに、ハーフなのかと問われるとき、「いや、普通にジャップだ」と答えていた。あるいは、爺さんがオーストリア人だとか、母方がアイルランド系だとか適当に言ったり、カタコトで「ニホンゴスコシダケネ」と言ってバレるまでからかったり冗談を言ったりした。本能的に、特定の国の者であると限定することへの抵抗は生半可ではなかった。
イエスですら、「わたしは天から下って来たパンである(ヨハネ6:38)」と言っている。あるいはパリサイ派との論争の中で、「あなたがたは下からの者だが、わたしは上からの者である」と言ったり、「わたしは神のもとから出て来てここにいる」と、人前ではっきり述べたではなかろうか。普通の人は、イエスを特別な聖人だとみなし、自分たちとは異なる神のような存在だと思っている。実際のところ、イエスは、ただ我々と同じように人間意識で育ったが、途中で真我を見出しただけである。もし我々が内に天の御国を見出すならば、誰もがイエスのように答えざるを得ないだろう。だから、この天から下って来たパンも、つい「天国人」と言ってしまったのだが、このことに私はむしろ喜んだ。まず天国人という言葉が気に入った。なぜなら、何人であれ意識を遡りマインドを超越するとき、すべては神であり、イエスだけではなく我々は皆、天国のパンであることが知られるからである。
天国意識。そこではすべての重荷から自由である。我々は特定の誰かではないため、することもなければ、背負うべき責任というものもない。完全な自由がそこでは達成される。実際我々は自由なのだが、個人という錯覚を受け入れ限定しているため、その限定にあえて苦しんでいる状態である。いわゆる観照意識に入ったとき、我々が行為者ではないことが知られるだろう。純粋なエネルギー、純粋な生命、これらは神と同義語である。天から下って来たパンを動かす力は神由来であり、パンを動かす力は神の意志であり、そのようなエネルギー自体が、観照者とは関係なしに、この現象世界では勝手に、自動的に働いているのである。
この観照者が「自分は特定の誰それだ」と思うならば、エネルギーは歪曲され、神の意志は個人の意志に堕し、人間の言う自由意志のような錯覚が誕生する。物質性に条件づけられるため、「あなたがたは下からの者だ」と言われねばならないのである。こうして無知の下に生きることが地獄なのであり、この世のすべての苦痛や不幸や問題の根源である。
私は際限なき天国人である。あなた方はまだ、自分を日本人だとか、アメリカ人だとか、特定のアイデンティティーを個別に持つであろうか。それはパンの種類の話ではないのか。あんパンであれフランスパンであれ、味や形や触感が違うだけで、本質的にはどれも小麦である。味覚や触覚や嗅覚に変化を加えるための装飾はあれども、依然としてそれは小麦である。人間もまた、何人であれ、同じ源から作られている。同じ質料から組み立てられ、同じ生命によって賦活されている。形態に様々な光線が与えられたとき、人格やパーソナリティー的な差異が生じる。しかしどの人間であれ人格であれ、源は同じ生命である。この神の生命を我として理解したとき、つまり調和融合したとき、我々は天国人であり、すべての兄弟姉妹もまた天国人である。
かつて、昼間にカルマとダルマを果たし、やっと夜になって瞑想に入るような生活をしていたとき、目を瞑った瞬間、錯覚を脱ぎ捨て天国に帰るとき、神の美しさ素晴らしさ喜ばしさに常に圧倒されたものである。そこが地上のどの場所であれ、関係なしに、そこは天国であり、わたしは天国人であった。つまり時空間は関係ないのである。それを認識するのは意識だが、それ自体は意識とも無関係である。このような境地はしばしば至福として描写されるが、美を強調する者は少ないように見える。それはひじょうに美である。神は美である。したがって今後また何人かと問われたならば、私は間違えて「美人」と答えるかもしれない。あるいは「愛人」と答えてしまうかもしれない。つい勝手に媒体が答えるのだからどうしようもない。
この世が美しく、素晴らしく、すべてが愛に溢れていることを実感したいならば、肉体に生きているうちに真我を見出すことである。それは難しい目標ではない。人々が勘違いしているのは、自分が個人だということであり、それゆえに、自身が行為者だと思い、何かをする必要があると思っていることである。「する」から自由になったあと、「在る」を知るのであって、「する」から「在る」を目指す愚か者は、「在ろう」とするだろう。私はこういうとき、嫌な気持ちになるかもしれないが、分かった上で「愚か者」などの用語を意図的に選択している。前の記事の後だったか、何の単語だったか忘れたが、それで嫌な気持ちになった人に、言葉の選び方をもっと考えたらどうかと言われたのを思い出した。しかし重要なことを話しているから逸れないようにしよう。もう一度いうと、「する」から自由になったあと、「在る」を知るのであって、「する」から「在る」を目指す者は、「在ろう」と「する」だろう。完全に間違った瞑想だということを知らねばならない。
「する」と思っている個人は、破壊される対象だということが分かるだろうか。その人が何かをし続ける限り、その人は「下からの者」であって、けっして「天から下って来たパン」ではありえない。「瞑想する」と言葉上では言うだろうが、実際の瞑想は、魂との整列を達成するための手段でしかなく、したがって真の瞑想状態とは、魂の瞑想を指している。もしこれが認識できるならば、ニサルガダッタ・マハラジが言ったように「私は何もしなかった」と言うだろう。ところが、世の中の瞑想を学んでいる方々は、まだ瞑想で何かをしようとしている。瞑想に方法があると思っている。それを他人から教わることができると他力本願になっている。そして、それが間違いだと教える者すら世にはほとんどいないのである。
眠りのように、「する」を手放させる力が訪れねばならない。そのためには、間違った瞑想を理解することである。それと等しく、日常の間違った生き方や在り方を理解することである。私が実践して実証済みだから言えるのは、自分について諦めるのが一番はやい。逆説的に思えるだろうが。その自分は死なねばならない。より大いなる真我のために犠牲の火に捧げられねばならない。偽りの放棄は、実際は解放を意味しており、それは言語を絶する喜びである。ラマナ・マハルシの対話集に次のようなくだりがある。これはよくある自我の無知を示している。
質問者:明け渡しのほうがやさしいことが分かりました。私はこの道を選びたいと思います。
マハルシ:明け渡しは、あなたが「神のみぞすべてなり」、「神の御心のままに」という境地に至ってはじめて完全なものとなる。その境地はジニャーナの境地と異なったものではない。……明け渡しはたやすく見える。なぜなら、ひとたび「私は明け渡します」と口に出して言えば、すべての重荷を神に背負わせ、あとは好きなことを好きなようにすることができると人々は想像するからである。だが事実は、明け渡した後に好き嫌いを言うことなどできない。あなたの意志は完全に不在となり、神の意志がその場を引き継ぐことになる。
これは、自分について諦めることが前提であることは言うまでもない。その後、抵抗しなくなった個人の意識に、魂が現れるのである。その結果、自身が魂になるゆえ、個人的な好き嫌いに関しては完全な無関心が達成される。それは、好き嫌いを言わないようにしようとする個人の企みではなく、魂が個人の手綱を握るゆえ、個人とは意識において無関係と感じられるようになるからである。私はこのような質問者の意識レベルから歩みを開始し、あらゆる困難な道を通り、神の意志と一致させるに至ったゆえ、自身の話として断言して公に書くことができるのである。だから信じてもらいたい。自分を諦めることである。個人的な自我の好き嫌い、つまり欲望や恐怖に関しては、「神の御心のままに」であり、「煮るなり焼くなり」といった境地に至らねばならない。これが分からぬならば、いつまで自我で、あるいは個人で、その死すべき己への奉仕に生きるであろうか。逆のことをすることが極意だと言っているのである。自分については諦め、「神のみぞすべて」を信じ、我にして神であるすべての兄弟姉妹のためだけに生き、自分は除外しようと決意すべきである。これが道である。すべての霊的試練をくぐり抜けてきた先人たちが確実に歩んできた王道である。
瞑想もまた同じであり、個人で瞑想しても何も進歩はない。まだ自分でどうにかなると思っているほどあなた方は経験不足なのだろうか。それなら、徹底して努力してみるといいだろう。そして、最終的にすべての努力が自我に寄与するだけであることを受け入れることになり、絶望するだろう。個人では、いかなる希望も存在できないことを知るだろう。このときのみ、自分についてはどうでもいいという諦めの境地が誕生する。もう私のことはいいと思えるようになる。このようにして、ハート・センターが目覚めるようになる。つまり愛のエネルギーが流入するようになるのである。そして実際に自分ではなくすべての関与する兄弟姉妹のために自分ができることを尽くし生き、一切の報酬も受け取らず、ひたすらに神であるこの世のすべての兄弟姉妹の困難のために生きるならば、あなたに愛が生まれて初めて感じられるようになるだろう。それまでは無意味な概念でしかなかった愛というものが、実際に自身そのものであることを見出すだろう。こうして我々は愛人になる。そしてすべての愛人は天国意識に生きるゆえ、すなわち天国人である。そのとき、すべてが美しいことに強烈に喜ぶだろう。それは感情の喜びとは全く異なるもので沈黙の喜びであるが、そのようにして至福に至るであろう。
この記事で最後に書かれたことは、極めて熟考に値するものであり、実践の価値あるものである。生き方を根本から変えるものである。もしそうならなければ、我々はずっと自我に奉仕してしまうだろう。
