体調が悪い人間は、体の調子を回復させようとする。なぜなら意識は苦痛だからである。超人の場合、体の調子が悪くても、自分とは関係がないという無関心が特徴である。なぜなら意識は至福だからである。超人の「聖なる無関心」は、体調不良ですら愛すべき一員の中に加えてしまう。人間は体調不良を悪しきものとみなし、それと敵対する。超人が体調不良を見るとき、その不調を治そうという意志は全くない。ラマナが言うように、個人の意志が神の意志に明け渡された後、好き嫌いを言う者は存在しないのである。体調不良は、ただ見られ、したがって愛と一体化の対象でしかなく、肉体は体調不良でも、ただ興味深く、喜ばしく、至福の意識によって抱きしめられる。
すべてを癒す力は愛という力である。専門的に言い換えると、神性の第一様相が第二様相を纏い、第三様相を通して認識され方向づけられたとき、霊において異物であるものは、敵対ではなく、抱擁という救済の対象でしかなくなる。ではなぜ、人間には愛の力が流れていないのだろうか。それは、自身を個人に限定しているからである。ゆえに、流入する力をすべて個人のために使おうという邪悪な乱れに生きているからである。この、構図的には神との敵対行為へ条件づける逆の力に同調し生きているがゆえ、意識において鎖国なのである。神の王国は開港を忍耐強く待っているが、個人が個人の意識に途方もなく引きこもっている。その精神は、「自分の国を明け渡してたまるか」というものである。
閉じている者に、どうして愛が流れ入ることができるであろうか。自分を捨てておらぬ者が、どうしてオープンマインドであり、また開港でありうるだろうか。明け渡さぬ限り、意識は個人という分離の鎖国に束縛されるだろう。「楽な生き方」を人間は求めているが、その方法はすでに示されている。開港である。もし開港の意味が分かるならば、開港した瞬間、重荷という重荷は神の船が引き取ってくれ、自らは拡大された大海原へと愛の翼で飛翔し、船酔いなどではなく、全一体という美意識に酔い痴れるだろう。
愛はすべてを駆け巡る。愛の巡洋艦は、その高い速力、無限の航続能力、愛という向かうところ敵のない強力な武装すなわち守護を特徴とし、溺れている者、争い合っている者、体調不良を訴えている者、それがどのような者であれ、この愛の船に迎え入れ、喜びという宴で歓迎する。この船は、愛そうという意志によってのみ方向づけられている。すなわち、船の舵を握るのは神の意志である。愛し合うとは、愛意志合うのことであり、これが正しい進路である。
たとえば、愛の巡洋艦であるとき、肉体が体調不良でSOSを発しているならば、その救援を求める遭難の信号が認められたとき、即時に丸ごと愛で飲み込む。そのとき苦しみ迷っていた意識は、病気の苦しみを認識できなくなり、肉体意識からは切り離されて、とこしえの愛と自由を知るだけである。彼の肉体は依然として他の人から見れば病気かもしれないが、彼自身は、あえて肉体と自己同一化しない限り、まさに愛によって癒されており、苦しんでいる肉体意識からは無限に自由である。無限は一体であり、一体を知る意識はとどまることを知らず愛の意志によって拡大を続けるばかりである。
具体的に述べよう。瞑想し、魂と接触し、魂のエネルギーの伝導媒体となり、個人的な意志をすべて魂の意志に明け渡すことである。これだけで、意識は個人から切り離されて自由になる。そのためには、開港の態度が必要である。魂とキリストは同じ意味であり、神は真の意味でのキリスト教を魂を通じて布教する意志を開港先に提供したいと願っておられるが、我々が自身に閉じているため、入りようがないのである。次の逆説的な教えを熟考すべきである。自分を諦め、自分を放り出し、自分に関しては、どうぞ神の御心のままに、と言えるハートの態度によって自己を捨てるとき、その無一物によってすべてを所有するようになるという教えを。これを人間が理解できないのは次の理由による。
自分を捨てていないめ、自分の意志で、自己を捨てようとする。自分を捨てようという具体的な自己努力が始まる。これが理解していない者の特徴である。「自己放棄をしようと自己がする」という文章の矛盾をさらに熟考すべきである。まだ自己と関わっているではないか。だから、この意味が分かるようになるまでは間違いなく辛いが、瞑想で魂つまり本当の自己と接触できるようになり、魂と人間である自分という分離がないことが理解され、意識において調和と一体化が、人間においては瞑想、魂においては人間の瞑想中における効果的な働きかけ、という共同作業によって進められるならば、自分で自己放棄するという矛盾の罠に嵌るのではなく、自分や所有という錯覚を打ち壊す愛の意志と力が訪れ、ヘッドからハートへと降り、開港されたハートで真我は実現されるであろう。専門的に言えば、ヘッドの二つのセンターを介して神のエネルギーが降り下り、そのとき初めて発達し始める頸動脈腺を支配するアルタ・メジャーと呼ばれる第三の頭部内のセンターを介して、ヘッドとハートが結びつけられ、自在に神のエネルギーがハートに滞りなく流入することが可能になる。このようにして、意識は肉体から自由となり、個人という国から自由になり、愛の大航海時代の幕開けを知るであろう。
このとき、体調不良の者は存在しているであろうか。だから、「医」という漢字を見れば分かるように、匚で矢を無効化している様子が描かれている。しかも右囲いではなく左囲いである。矢は意志の象徴であり、神のエネルギーのことである。これが、人間という匚の鎖国によって、どうしても流入できないことを示している。だから、「医」という漢字を見るだけで、病気の原因と、病気の直し方が同時に描かれていることが、見る者が見れば手に取るように分かるはずである。ゆえに、
すべての病気は調和の欠如に原因がある――形態様相と生命の間に存在する不調和である。……魂と形態、生命とその表現、主観的なリアリティーと客観的なリアリティー、これらの間に整列の欠如がある場合に、病気は現れる。霊と物質が互いに支障なく関係づけられていないのである。
アリス・ベイリー「秘教治療上」p.29
この引用を医者に見せてみよう。意味が分からないと言うだろう。つまり医学を学んだことがなかったということである。医者の中でも賢い部類の者は、自分では薬は飲まないそうである。患者には金儲けのために薬を処方するが、自分ではそれが害であるか、もしくは不要で、治療の妨げとなり、治癒を妨げるだけであることを知っている。このどこが仁術であろうか。本物の医者は、治療で金を取らない。治療で生計を立てようと目論まない。医学を利用して金持ちやステータスを目指さない。これらは、自滅行為だということを頭は理解すべきである。まず、医者が病気を治せないという事実を直視し、それで病気の専門家であると言い切れるのかを問うべきであろう。世の大半の医者にはこういうことは言わない。心を開きつつある医者にだけ言っている。「医」の文字が意味するものを瞑想で研究してもらいたい。私は現代医学を否定する気は全くないが、医学を成長させるための意志を持つ。まずおのれを実験台として、おのれの病気をおのれで治せるようになるのが最初である。このようにしてエネルギーの科学、すなわち意志と矢と障害に精通し、精通することで調和を自らで理解してもらいたい。これを理解したとき、人間は誰しもが自己治癒能力を秘めていることを教え始めるだろう。患者にただ薬を出すのではなく、病気の意味についてのオカルト的な啓蒙活動を始めるであろう。つまり霊と物質というエネルギーの科学である。そして、誰もが病気にならない時代、病気で苦しむことのない時代、すなわち惑星の輝ける未来へ向けて奉仕し始めるであろう。このとき、学生時代に恋愛できず勉強ばかりしていた鬱憤を、金に物を言わせて愛人作りに励むことで晴らすような虚しい大人の生き方ではなく、己そのものが、愛の人になっているであろう。この愛の巡洋艦は、無私であり、決して報酬を要求せず、愛し、愛し、愛しまくることがその喜びである。なぜなら、愛の主は一体、すなわち唯一なる真我だからである。
