まだ分離した個人である弟子の目標は、魂との接触であり、その後、接触している魂との融合である。言い換えると、最初の二つのイニシエーションでは、弟子が扱うのは魂のエネルギーである。第二イニシエーション前の弟子の場合、脳意識において、明確に認識した状態で魂の力を諸体、特にアストラル体に適用しながら生きている。このようにして弟子は情緒性質から自由になる。まだ情緒は感じるであろうが、それらの背後の魂として、感じつつ、同時に感じるものから自由であるという意識状態を達成する。そして、知覚されるものと、知覚するものが、同一であることを知る。このようにして、パーソナリティーは魂と融合し、分離感から徐々に自由になる。
「私は誰か」と弟子は問う。通常の人間は完全に肉体を自分だと考えている。この思想は覆すことが至難である。見習いの道に入るような者は、この思想を自ら覆さずを得ず、自分が形態ではなく、形態の背後の何かであると考え始める。このようにして瞑想は真我を知るための聖なる手段となる。しかし、真我とは何かと弟子は問う。つまり、真の私について分からないと言い換えることができる。それは、頭で考えているからである。頭つまりマインドが静止傾向に入ったとき、徐々に魂の世界が意識に明らかにされ、やがてその世界の住人にすらなり、そのとき、「私は魂である」という結論に導かれる。この段階の弟子は、人間の形態を保持して生きながらも、自身が魂であることを認識したまま生きている。彼は金剛不壊の権利を得つつあり、実際に、かなりの割合、この世の話から自由になる。にも関わらず、まだ彼は魂と霊を区別できないのである。
清澄な冷たい光が輝き出る。それは冷たいが、熱がエネルギーの放出による暖かさを可能にする。……この熱は、生き生きとした霊的エネルギーを表現するために多くの世界の聖典で使われている象徴的な言葉である。私は「霊的なエネルギー」と言ったのであって、魂のフォースとは言わなかった。ここにあなた方がいつの日か把握しなければならない違いがある。
アリス・ベイリー「光線とイニシエーション上」p.53
「魂のエネルギー」と表現するのはパーソナリティーである。彼が魂によってパーソナリティーを超越したとき、それは「魂のフォース」と表現されるようになるだろう。つまり、エネルギーとフォースの真の違いについて認識し始めるのである。それは、魂である弟子が、霊を認識し始めたという意味である。私が普段、瞑想の初心者に教える場合は、魂のエネルギーと諸体のフォースの違いについて教えるが、それをすでに理解しているような者に対しては、純粋なエネルギーとそれ以外のフォース(魂のフォースも含めて)の違いについて考えさせねばならない。ここに、大前進とも呼ぶべき認識の拡大の鍵があるが、その答えがあまりにも単純すぎるからか、転生周期の最終盤まで、「私は誰か」の答えとして――前回の記事の流れで言えば――すべてに内在する0つまり霊については分からないのである。
「命を絶つ」とか「命が絶たれる」とか言うが、命と形態を区別していないため、形態からの命の撤退を、つまり形態から命が絶たれることを、人は死と呼んでいる。つまり形態を自己とみなす者には生死がある。形態から撤退する命が私であると理解する者はまず存在しない。肉体の我にこだわりすぎて、焦点がずれている。ならば生きている間、つまり形態が活動可能な間に、形態の生を可能にしているのもまた、形態に内在し、形態に繋がっている命である。生命のエネルギーである。これが理解できるとき、魂は、一種の器官である。人間の世界における霊の活動(神の意志)を遂行するための装置であり、媒体であり、窓である。魂のエネルギーであれ、パーソナリティーのフォースであれ、形態質料であれ、すべてに内在し、すべてを存在可能にし、すべてを賦活し、活性化し、生を可能ならしめている生命エネルギーが命である。厳密に言えば、神あるいは霊の第一様相が生命である。魂を可能にさせ、魂に内在し、魂の背後で沈黙しつつ、魂を方向づけている様相が生命であり、神の生命、神のエネルギー、神の意志である。
何にせよ、頭が邪魔している。霊的理解つまり霊的直観を阻害している頭(マインド)を、瞑想の力学に精通し、力や意志やエネルギーそのものと調和し、一致振動し、調律することで、意識の窓を外ではなく内へ、下ではなく上へと開き、あるがまま、全顕現の背後の霊そのものへと、魂と意識は集中し始めねばならない。頭からではなく、自身が生命であり霊であることを知りさえすれば、他のいかなることも知る必要はなくなるだろう。そのときの声明が「私は何も知らない」である。生命は何も知らない。言い換えると、何とも関係がない。それは原因であるかもしれないが、原因は結果の奴隷ではないゆえ、原因は常に結果からは自由であり、自由であるとは、関わっていないから束縛されてもいないということである。私は何も知らないし、知りたくもない。知られるものはイリュージョンである。
たとえば、イリュージョンは秘教的な専門用語だと思われている。しかしそれは全く概念ではない。概念になったからイリュージョンなのである。イリュージョンは長いあいだ理解不能である。だからイリュージョンに惑わされているのである。イリュージョンを貫くのは直観であると言われるが、もっと本質的で簡単な言い方をすると、本物を知ったときだけ偽物だと分かるのである。本物が分かるまでは、偽物でさえ本物に見える。
だから、この世の馬鹿者は、常に知識を誇るものである。理論の武装化どもであり、強烈に弱者である。理論や知識がなければ彼らは怖くて泣かざるを得ないだろう。何も知らないことは、自我の極地を体験する者にとっては恐ろしいものである。しかし、真に勇敢なる者は、何も知らないことを喜ぶ。これが天真爛漫であり、真の無垢である。赤子が何も知らぬのはその象徴である。ゆえに無知とは、自分が知らないことを知らないことではなく、何も知らないでいいことを知らないことである。知からの離脱、マインドからの撤退、頭からの自由が大いなる鍵である。それを可能にさせるのが瞑想ではないのか。私は誰かとつぶやくことは決して瞑想ではない。私は誰かと考えることは最初は良いが、考えても意味がないことが分かった後は、ひかえて、考えなくていいという自由を喜ぶべきである。知らないこととは関わっていないことである。知らないからこそ自由である。自由だからこそ喜びに満ちるのである。そこが無恐怖の世界であり、天国であり極楽浄土である。そこでは何もかもが美しい。何もかもから自由であるからこそ、汚れなく、美しい。純粋とは美である。生命とは美である。ゆえに、すべての者はすでにして美人である。余計なことを知って、細工や加工に生きねばならぬ者だけが不細工であり、不幸である。
生命に何を細工しうるであろうか。生命は加工不要である。純粋はあえて不純になる必要がない。だから、自身の細工する傾向、どうにかなろうとか、手腕なき自我が細工に生きるとき、生は不細工に仕上がり、結果として不幸を味わうことで学ぶ。この方向性は間違っていたと。この世の測りもので凄いもの、偉いもの、誇らしいものを得るべく細工という努力に生きて勝ち取ったとしても、そのような者が気づかざるをえないのは、虚しさだけである。何を得ても、得れば得るほど、不幸になる。無一物な者からすれば、余計な荷物だと笑われるだろう。死を直視できない者は、常に死んで持って帰れぬ物にこだわる。生とは、我々のものではないのである。経験豊かな賢き者だけが、平れ伏して、馬鹿を認め、自分の意志という誤解を恥じ、神の生命という、我々の知に決して汚さも細工されもしない、真に純粋な霊的意志におのれを明け渡す。これが自由の正体である。自由意志からの自由が神という自由である。
力や意志は第一様相であり、我々の力や意志の背後にある。我々が目指すものをそれは目指していないことを知るべきである。私の目的ではなく、神の目的に生きるべきである。悟りたいとか、真我実現したいとか、それは個人の目的である。頭に生きる者の誤った願望であり細工である。頭とマインドの結果であるイリュージョンが、本物を遮っている。本物が現れるための環境を整えるのが瞑想である。魂を介した神のエネルギーによって、我を純粋化し、外へと向かう細工傾向を浄化し整える。だからといって、長時間瞑想などの個人意志に生きる者は愚かである。睡眠と同じで、長ければ浅くなる。奉仕するからこそ深い瞑想に入れるのである。顕現のすべては呼吸している。瞑想は吸気と関係しており、顕現の世界での呼気のことを奉仕と呼んでいる。したがってそれは細工的なものではない。奉仕は自然のものであり、その者の環境に応じて常に何らかの奉仕が可能である。奉仕は、考えられているような外的行為を必ずしも伴うわけではない。奉仕は何らかの活動ではあるが、その活動を可能にさせる力は神の力であり純粋な意志である。
長いため最後にするが、瞑想が、そもそも人間にとっては最高奉仕である。どのような悪人でさえ、本物を知りさえすれば、あるいは近づいただけで、改心させられる。どのような傲慢さも、そのお方の前では謙虚にならざるをえない。人間から有害性を消し去るのが瞑想である。これがどれだけ素晴らしきことか、言い表しようもない。ゆえに、個人のために利用される目的の誤った瞑想ではなく、純粋な真の瞑想に生きる者は、最高の奉仕者の道を歩んでいる。最高の奉仕者とは神である。我々は瞑想を通してそれを学び、神の道を学ぶ。権力者が夢見る世界統一は、それが歪められたものである。真の統一とはすべての調和である。いずれも破壊を伴うが、結果が違う。一方は残酷と阿鼻叫喚へ、もう一方は真善美の祝福すべき神の喜びと至福の世界へと導く。その担い手である媒体へと諸体を整える瞑想、すなわち魂との交じり合いの、何と美しきことか。内なるソロモン神殿を建設することの、何と奉仕的なことか。そのような建設的な力が流れているのである。この神の力が導きゆく方向が神の道である。神は内在している。ゆえに、道を歩むことができるようになる前に、瞑想で道そのものになるということが、なにゆえに奉仕ではないと言いうるであろうか。
