焦点。我々の焦点はどこにあるのか。マインドだ。目に見える現象や身に起こる現象をもとに、常に何か考えている。あるいは、焦点は情緒や感情や気分だ。これらはマインドの解釈次第で生じ感じられるようになる。辛いとか苦しいとか、今日の予定は楽しみだとか、楽しみの最中の幸福感だとか、人類は情緒的な感覚知覚に焦点を当て、その種のフォースの奴隷状態にある。
私は、最初のマインドへの焦点化が起こらない。その背後の不動で不滅の本質が私である。つまり、始まりの私が人類はマインドの私だが、その背後の普遍的エネルギー生命を私は私として生きている。この始まりの差異だけが問題だと言っても過言ではないだろう。何が見えていようが、何が身に起ころうが、私はそちらに気を取られることなく、常に現象や形態の背後の私つまり真我を知るがゆえ、想念や情緒への無意識的な焦点化が起こらず、四六時中、至福で満たされている。
見ているのは誰か。見られているものは、大きな意味でのマインドの産物であり、すべては真我に胎蔵されている。あるいは、真我が存在するゆえに存在している。私が在るゆえに世界は在る。世界は私と同義語なのである。この境地が一体や一元であり、すべては我であり、つまりすべては神であるという、見た目上のものやマインドの背後のリアリティーに私は生命として生きている。
何が見えようとも、また何が起ころうとも、その背後にそれを見ている私が存在し、見られているものの背後もまた私である。ここに頭が関わる余地はない。私は在る。ただそれだけだ。個人に見られている世界は、魂的な子供のアトラクション施設のようなものであり、それが現実でも実在でもなく、あまり出来の良いものでもないことが知られたあとは、焦点は幻ではなく、至るところ、森羅万象の背後の私である。客観とか、客体化とかいったものは、マインドの解釈であり、イリュージョンである。存在しているのは一なる主観のみであり、何であろうがその見かけのものの背後は私である。
瞑想で真我を見出した者は、目を開けても真我を見出し続けていなければならない。我々は、目に見える形態の世界が視界に映っていながらも、その背後の真我を認識できるかをまず確認すべきである。瞑想では一元を達成しても、目を開けただけで一発で見えるものに騙されているようでは気が遠くなる。まず、見ているのは私ではないのか。見られているものは、見ている私なくして存在できるのか。なぜ瞑想中つまり目をつむり、見られるものがないときは主観である真我に集中できて、目をあけると途端に客観に騙されるのか。客体化はマインドの仕業だ。目を開けても変わることなく、意識は真我に焦点化していなければならない。ここは、ひどく熟考すべきところである。
目をつむり瞑想すると内へ意識は向かい安定する。目を開けるとマインドが優勢になり暗転し、影でしかない客観の世界の中に自分がいると考え始める。瞑想時と目を開けた時とで何が違うのか。はっきり答えるが、瞑想中はマインドを静止させ本質に焦点化するだろうが、目を開けたら静止させていたはずのマインドを活動化させ、意識はマインドとその産物や影に焦点化し始めるのである。目を明けていようが、マインドの背後の真我を継続認識できるか確認すべきである。瞑想中だけ我=真我で、目を明けたら我=個人では、何のための瞑想だったのであろうか。目が映し出すものに真我が負けている原因とは何か。このような怠慢は決して許すべきではない。目を開けただけで霊的に役立たずに堕ちる。そして誤った私つまり行為者として、無意味なカルマを再び作り始める。
瞑想では至福。しかし目を開けたら個人になり、マインドの錯覚に徐々に蝕まれ、波動は落ち、次の瞑想が可能になるまで苦痛という悪循環を私もまた味わってきた。だから、目を開けるとなぜ駄目になるのかと私は考えざるをえなかった。あるいは、目を開けていようが、行動が起きていようが、その背後の真我からずれることなく、頭をもたげ始めるマインドの傾向を統御したままでいられるかを研究した。すると、客観を見ること、つまり見る前に客体化すること、分離すること、この責任と原因は私の知的怠慢であった。目を開けると天国が失われ、ただの地上になることの責任はひとえに私の馬鹿さが原因であった。このような時期も経験させられてきているが、言いたいのは、この点について考えさえすれば、目を開けていながらも瞑想状態を継続することが可能であるということである。分離せずに済み、見えるものだろうが、起こることだろうが、すべての背後に主観である我すなわち真我を見出し、常に意識が真我から逆戻りする知的な怠惰を防止することが可能である。客観を見ているのは主観である。これをより厳密に考え、客観を見ているのはマインドを通した主観であることを知り、マインドを通さなければ主観しかなく、存在するのは真我のみであるという真理を、見えるものや起こることが喚起するマインドの活動に妨害されずに認識していられることを、徹底して我々は確認しなければいつまでも非実践的である。いつまでも目を開ければ個人である。つまり地獄である。
つい最近のことだが質問を受けた。この者は霊的な学びに目覚める前に精神の病いと戦っていたが孤独に戦っていたわけではなく、精神科医と共に戦っていた。ゆえに、その頃からの習慣で、未だに病院通いであり、つまり薬を入手し続けており、目を開けた後つまり瞑想後の日常生活は薬で苦痛を誤魔化しながら生きていると言うのである。これが悪いと言いたいわけではない。その者が、薬の弊害に直面して大変困っていると言うのである。つまり、瞑想の素晴らしさを知るに比例して、薬が効かなくなってきたのである。これはその者からすれば大問題であり死活問題である。日常生活つまり目を開けているときの意識にひどく支障をきたすからである。
はっきり問いたいが、薬とは何か。波動を落としてアストラル的に安定させるものを薬と呼んでいるのではないか。この者が飲んでいるような抗不安薬のことである。この種の薬は、麻薬と同じで、やめるのが困難である。一生飲み続けないと苦しみもがきながら死ぬことになるだろう。だから生きるのが苦しく薬に頼ろうかと思っているような読者には、必ずしも禁止しようとは思わないが、問題を後回しにすることにはなるという事実は理解してもらいたい。薬中になってから対処するのは大変である。しかし、対処は可能である。同じようなことで困っている人が多いから私は書いている。対処法は、24時間瞑想である。「お前は長時間瞑想について散々文句を言っておきながら今度は24時間も瞑想しろと言っているのか」と誰か思うであろうか。ならば言い換えよう。24時間真我である。さらに言い換えると、24時間マインド無視である。すると、地上に薬なしで天国が復興するであろう。しかも時間を必要とせず瞬時に。私は重要なことを言ったつもりである。24時間、全統御である。これは、寝ているかのような人間の精神とは真逆の、極めて鋭敏な認識状態つまり意識状態を必要とする。そのためには、これが可能になるぐらい、長年の瞑想に邁進していなければならない。
現象、フォース、エネルギーの世界全体には、霊的なものが統御できないものなど何もないということを、協会や至るところにいる人々は学ぶ必要がある。実際のところ、存在するものはすべて、霊が顕現したものなのである。
アリス・ベイリー「新しい時代の教育」p.108
環境や時代に応じた文章ではあるが、どの時代、どの環境にも等しく通用する事実である。「霊的なもの」とは何か。私という意味での真我である。通常の人は、真我とは何かすごいものとして、あたかも私ではないものかのように、概念で考えている。真の我と書いてあるように、真我とは私のことである。普通の人の私はマインドを通した私だから個人になっているが、瞑想という長年の奉仕に平伏して従事してきたような弟子たちにあっては、マインドは霊的なものによって統御され、真我と私は同じものに実際になっている。それゆえ、極度の痛みや憔悴した後の病気など、まだ統御できない現象やフォースは残されているであろうが、我々が統御すべきなのは、瞑想中と全く同じで、外へと向かうマインドの統御である。言い換えると、常に内へ、すなわち真我へ意識が安らいでいる必要がある。これを24時間瞑想と言ったのである。だからジュワル・クールは次のように弟子に言った。
朝の瞑想で達成した高い調子にできるだけ近い意識を毎日一日中毎時間維持するように試みるべきである。自分自身を、分離したパーソナリティーではなく、魂と考えようと決意することが前提である。後に魂がもっと支配力を握るようになったとき、全体のためにならない関心、欲求、目的、願望を全く抱かずに、自分自身を全体の一部と見なす能力も必要になるだろう。また、低位の波動への逆戻りを防ぐために、一日のあらゆる時間、絶えず注意を払うことも必要である。引き摺り下ろそうとする低位我と絶えず戦わなければならない。高位の波動を維持するための絶え間ない戦いである。そして、これはあなた方に印象づけたいと思っている点であるが、目指すべきものは、一日中瞑想する習慣を発達させ、高位の意識をもって生活し、この意識を安定させることである。その結果、低位マインド、欲求、肉体エレメンタルは養分の欠如によって萎縮して飢え死にし、三重の低位性質は魂が人類の救済のために世界に接触するための単なる道具になる。
「秘教瞑想に関する手紙」p.175
長い間、我々は定期的に波動を落とさなければ逆に危険である。諸体が高位の波動に慣れていない段階では、長時間高位の波動にさらし続けることは不可能である。ゆえに、「ずっと瞑想していたらどうでしょうか」とラマナに質問した者がいるが、「やってみなさい。できませんから」と一蹴されている。最初はできない。できる必要もない。しかし、徐々にできるようにならねば我々は永遠に自我に留まることになる。とはいえ、この段階で自我の描く地獄の認識はさほど伴わないものであろう。つまり個人として生きていられるであろう。しかし徐々に、低位の波動に落とすことが逆に耐えられなくなるはずである。だから、薬で苦痛を誤魔化したり、薬で波動を落としたり、よりアストラル的な意識にわざわざ戻したりといったことが、耐えられなくなるだろう。このようにして、真我の至福の中で、薬中の禁断症状は何の無理もなく克服されるだろう。そもそも、瞑想に慣れ親しむことで薬が効かなくなるのは当たり前である。薬の影響力つまり低い波動になぜ瞑想の熟練者が逆に統御されねばならないのか。高い波動に生きている者は、薬だろうがアルコールだろうが影響を受けることはない。完全にないとは言わない方がいいかもしれないが、基本的には霊が統御できぬものはない。あとは意識段階の問題である。
私は繰り返し、真我以外はすべて苦痛と言ってきている。言い換えると、至福以外はすべて至福ではない。なぜこの当たり前の事実に逆らうのだろうか。つまり、逆らうように仕向けてくる力とは何なのか。「引き摺り下ろそうとする低位我」とは何なのか。低き波動に対処できるのは高き波動のみである。「朝の瞑想で達成した高い調子」に合わせてさえいれば、真我の至福や安らぎや平和から逸れることはない。あらゆる障害に応用できる唯一なる極意が真我である。真我は概念ではない。私であることを忘れないようにせねばならない。私という主観に意識を集中できるようになるためのものが瞑想である。そこで調和し、融合し、一致し、天の安らぎを我が内にて知るのである。この意識の維持が弟子の目標であることを、すべての真の弟子は理解している。普通の人と共に生きながら、周囲の誰も理解できない難題に取り組まねばならないのである。この道はすべての先人が通った。難しいが、だからといってもはや個人で生きれるであろうか。瞑想を知り、魂を知り、天上の至福そのものが永遠不滅の我なりの境地を知った者が、「逆戻り」できるであろうか。そのような落第生になっては意味がない。
とはいえ、これはやや熟練の弟子に対するものであり、一般的と言えるものではまだない。ラマナが質問者に言ったように、「やってみてごらんなさい、できませんから」である。長い間、高い波動と低い波動の行ったりきたり、魂とパーソナリティーの意識を行ったりきたりという二重生活に弟子は苦しむ。これに関する引用を挙げると、
意識は苦痛に満ちた分化を経験し、二重性を経験する。この状態において、人は本質的な二重性と呼ばれるものをはっきりと自覚する。彼は自分が霊であり物質であること、形態であり生命であること、顕現している魂であることを知る。この段階は多くの生涯にわたるもので、人に見習いの道と弟子の道を歩ませ、第三イニシエーションへと導く。この段階において、重心は形態面から徐々に外れ、ますます魂の側面に集中するようになる。二重性を包含しながらも、同時に二重性を消し去る一つのリアリティーが存在するという意識が成長する。
「秘教心理学1」p.44
このリアリティーを我として瞑想で認識できるようになった後は、この認識つまり意識をより成長拡大するために、24時間、あるいは起きている間、睡眠してもずっと寝ずに、夢を見るくらいなら起きて瞑想を挟みながら寝るようにし、常にリアリティーである真我のみに邁進できる美しさ喜ばしさに生きねばならない。薬が効かなくなりましたで困っていてどうしますか。そんなことくらい克服できる。どのような薬中であれ瞑想の至福のうちに勝手に治る。と、このような話を私がその者にすると、話が逸れていって、「刑務所で瞑想を教えたらどうでしょうか」と言われた。私は笑ってしまったが、それが有効なのは当たり前であるものの、そのようなことを言い出すと、瞑想が指し示すものを教えることは全ジャンルで有効であり、そして全ジャンルにそのような教師が不足しているのである。刑務所だけでなく、小学校にもホワイトハウスにも不足している。672夜の読者にもあらゆるジャンルの職業の方がいるが、そのあらゆるジャンルにおいて、自身が、「魂が人類の救済のために世界に接触するための単なる道具」にならねばならないのである。このようにして魂の人材不足を解消せねばならない。優先順位としては、このような道を真剣に歩む素質のある者から始めるべきである。差別しているわけではないが刑務所の者からではない。
おそらくすでに長いため最後にするが、このブログだったか、ブログランキングに私は登録したことがある。どれだけ関心を惹くことができるか実験したのである。全然人気がなかった。多分、「瞑想」というカテゴリーもしくはジャンルで登録したにも関わらず、ほとんど誰も真面目に読んでくれなかった。おそらく、それまで定期的に読んでいた読者の一部が、可哀想にと思って時々クリックしてくれていたのだろうが、人気がないからランキングもそれを反映するものであり、そのとき学んだのは、この瞑想というジャンルにおいてですら、完全に悪(分離)と利己主義にすでに乗っ取られており、ほとんどの人にとっての瞑想とは、「肉体である自分の何らかの幸福のために利用しうる瞑想」という意味での瞑想でしかなかった。刑務所で教えるよりも遥かに需要が高そうなところですらこうなのである。八十億という人口のうち、魂的な瞑想と関係している者はごく稀であり、興味を持つ者すら少ない。だからジュワル・クールは、「神の計画を認識する者は、同時にそれがどれだけ完成に程遠いかを認識する者である」と言っている。はっきり人手不足である。イニシエート不足である。弟子不足である。したがって、我自身から始めねばならない。おのれが真我を認識できるようになり、日中も真我であるほど融合し、何のための生か、何のための生命か、生命すなわち神の目的とは何か、神すなわち真我で在ることの意義とは何かを怠りなく意識したまま、美しい生を謳歌せねばならない。これが天使のラッパであり、黙示録のラッパは決して破滅や神の裁きといった解釈ではなく、新しく美しきものが顕現する前の、古きリズムと形態の破壊の合図でしかなく、その合図は神の栄光を知らせるものである。このラッパが、我が内にていずれ鳴り響く音を聞くであろう。
