この世の者で、個人的に傷つくことが一切ない者が存在するであろうか。私は傷つかない者である。傷つくという体験は私には起こらない。個人ではないのだから。今日もまた色々この世の話を聞かされ、何らかの事象で大変傷ついたとその者は言っていた。人間不信になりそうだとか、病みそう、などと語り深刻だった。目を腫らしていたから泣いたのだろう。可哀想に。自分が個人ではないことをまだ分からないのである。起きたことの被害者として可哀想とは思わないが、未だに個人が自分だと信じていることに憐れみを覚える。キツめに言えば、知的に遅れがある。
個人を私とみなす態度を止めないならば、つまり魂を見出し魂が私にならないならば、他人ではなくその者が危険人物である。常に誰かを傷つける可能性があり、常に誰かに傷つけられる可能性がある。許せないだとか、殺してやろうだとか、怨念めいた波動に絡め取られている。この世で起こることは、すべて自身の間違いを教えるためのものでしかない。他人が悪いのではなく、自身の考え方や在り方の何かが間違っているという教訓を学び取らぬならば、その事件は無価値であり、したがって無限に、定期的に、その者は嫌な目に遭うだろう。そして、その都度、非が他人にあると考え、決しておのれを見ることはないだろう。これが危険人物の特徴であり、知的に遅れのある者の顕著な特質である。
個人に生きることがいかに危険であるかを我々は認識できないでいる。むしろ、個人の希望を追求している始末である。それが人生ぐらい考えている。その大群が人類である。これはホラー映画なのか。ほぼ全員が自分を分離した特定の個人だと考えている。それで生きていられることに驚かざるをえない。おのれの末路が読み取れぬであろうか。個人は、常に何かに執着して安心を得ている。あるいは執着するもので楽しみを得ている。今日の人は、「裏切り行為」とか、「人間としてあるまじき行為」といった表現をしていた。よくそのようなことができるなと思い、唖然となり、暗然となると言う。この種の批判は、自分を個人だと思う者にのみ起こる。瞑想の熟練者に聞いてみるといい。怒りを知覚できないと言うだろう。真の自己――個人は死ぬが、新たな個人を纏って周期的に転生する自己、すなわち魂が自己であることを理解し、その魂で在る者にとって、この世で肉体を纏い存在しつつ、傷ついたり、誰かを恨んだりといったことは絶対に起きない。不可能である。魂を知るとは、自分を知るということであり、それまでの自分が真実ではないことを知ることであり、同時に、個人的な自分が存在しないということは個人的な他人も存在しないという事実に目覚めることである。そのような者にとって、この世で起きるどのようなことに対しても、文句というものはない。関係ないからどうでもよく、すべてはひとりでに起きているだけであり、その意味で、神の御心のままにという無関心、無関係、無執着の態度によってこの世からは隔離されている。切り離されており、自由である。
真我を理解できぬゆえ、分離した個人や他人が存在し、そのような錯覚に生き、傷つき、あれこれ不平や文句を言うことの責任は、まさにおのれの無知にあるという事実からは誰も逃げられない。真我を知らぬ者は全員、精神的に不安定である。何が起きるかによって、どうなってもおかしくない。どのように豹変してもおかしくない。これゆえに、ジュワル・クールは、「第三イニシエーションを受けるまで人間は白か黒か分からない」と言った。通常、第二段階のイニシエートは平均的な人間からすればかなり高い段階であるが、完全に魂になっておらぬ段階で、どうしてイニシエートと呼びうるであろうか。まだ不安定であり、危険人物である。まだ滑落の可能性があり、それが起きるか否かはその者に起こること次第である。現に、聖人などと崇められていた者が、性的な誘惑に耐えきれずに堕ちる例は多い。歴史上で聖人扱いされている者で、実際は性的に堕落していた者のなんと多いことか。わずかであれ弱点や執着や満たされなかった欲望を抱えたまま、天の御国に入れた者はいない。危険人物がその危険を学ばず時期尚早に天に受け入れられたためしはない。あらゆる堕落や失敗の背後に、自身の弱点を見出さずして、完全に魂と融合することは不可能である。だから、2.7段階のイニシエートであれ、3.0に至っておらぬ限り、「白なのか黒なのか判別できない」し、ゆえに不安定で危険人物であるとみなされねばならない。しかし、この世の者が2.7段階の者を見たならば、覚者と勘違いするであろう。1.7段階でも覚者と思われている者は多い。ただ平均的な人より発達しているというだけで、覚者に見えるのだろう。
あるイニシエートは、「結局のところ魂とは覚者である」と言っている。おのれが個人ではなく、魂であることを知り、最終的な融合に至るまで、我々には常に危険や悪に見舞われる可能性がある。魂の意識に撤退できることを瞑想などで学び、その位置から落ちぬように、用心しながら、謙虚に生きねば、必ず堕ちるだろう。必ず痛い目に遭うであろう。それは個人という錯覚にかまけ生きる者の絶対的な宿命である。このような認識がない場合、何度も何度も痛い目に合わなければ、学習できない。もうこりごりだ、とは言わない。個人の限界を認める境地にはたどり着けない。分離精神がいかに危険であるかに納得し、過ちに頭を垂れるほど従順になることはない。
他人の至らぬところを見るのではなく、その至らなさに気分を害している自分に問題があることをまず認められるぐらい大人でなければどうしようもない。人間関係で問題があるのは、おのれの責任である。魂との一致を通し、おのれから悪を一掃した者は、決してこの世に悪を見ない。一見すると悪であるような事象にすら、その背後に神を見る。一時的な観点からではなく、永遠という神の観点から見る者は、すべてに神を見、ゆえに美しさを知り、真の安心と安全を知り、世界の主の抜け目ない賢さに安らぐ。責任という責任から自由になり、すべての荷を下ろし、神に委ねるということの意味と意義に目覚める。これが真の無抵抗であり、このときだけ、真の霊的潮流が妨げられることはなくなり、個人という錯覚の支流は真我なる大海へと溶け込み、絶対的な一なる調和と平和に安らぐ。このような者だけが安定しており、あらゆる危険の心配のない者である。このときだけ、その者は白であると認めることが可能である。
他人の行いに非が見受けられようとも、それを非となじるような精神の荷物を抱えるおのれをまず直視してもらいたい。嫌な目に遭ったのならば、それは日頃では見えない自身の悪を見出す貴重なチャンスである。愚か者だけが神に与えられた機会を不幸と解釈し、本来であればそこから学べるものを見落とし、目を他人の非にばかり向け、この世に破壊の種を植え付ける。コツは、何が起きても惑わされず、魂へと意識を撤退させることだけである。ブラヴァツキーが、ブッディ界と名づけざるを得なかったその魂の領域、仏陀的領域だけが人間を悪から守る。少なくとも世界や個人から意識が切り離される領域はブッディ界である。この意識の達成は難しくない。正しく学び、正しく瞑想するなら難しくはない。私が学び始めた頃にこの文章を読んだならば、「この話はかけ離れすぎて私には関係ない文章だ」と感じただろう。そして、そのような意識を達成するのは特別な聖人だけであり、それは決して私には起こらないと考えただろう。事実、その種の話と自分は関係がないと思って瞑想してきた。これが逆によかったのかもしれない。だから、普通の瞑想する者たちが、悟りを求めていると知ったとき、その過大評価と自信過剰に驚いた。私には全くそのような自信はなかった。個人を自分だと思っていたから。個人はあまりよくない人物であり、ゆえに聖人に起こることが自分に起こるはずがないと考え、そのようなことよりも、自身の苦痛をどうにかすることが主目標だった。常に。苦痛とは何かを常に見出すべく瞑想していた。悟りや真我実現といった概念に逃避するのではなく、目の前の苦痛、そして瞑想で苦痛がなくなること、このような謎について探求していたと思う。この意味で、実践的だったのである。その意識における事実と向き合い、何なのかを解き明かさねば生きていられないという心境だった。そして答えは簡単なものだった。私は決して個人ではなく、魂であるというものである。そして、人間界で学ぶのはおよそこれだけだと思った。
