霊的に生きていない精神の顕著な特徴として、虚無感が挙げられる。何をやっても結局は虚しい。満たされるためには常に他の何かを必要とするからである。誰かに褒められたり、注目をあびたり、あるいは何かを達成したり、手に入れたり、そしてそれらが途切れると、途端に虚しくなる。学習が進むにつれ、それらで満たしたあとにすら、虚しさを覚えるようになるであろう。霊的なもの、つまり実在ではないもので決して人間は満たされない。充足は、非実在による場合は錯覚ゆえ虚無に行き着き、それまでの徒労に疲労とやるせなさを感じるだけである。日常において我々が意識的である場合、これを防ぐことができる。しかし、意識的であるためのエネルギーが押し寄せてくるか否かは、その者の段階、偏極、周期、運命、カルマによっ基本的には決定される。それは人間の努力とは関係がない。
「意識的であろう」とすることは個人の努力である。意識的であるとは、霊的な存在の状態であり、それは無意識的な生き方が糊塗しようとするあらゆる虚無に対する欺瞞が認識され否定されることでしばしば顕現する状態である。したがって意識的になる前に、人間は観察的になる。省察的になる。静かにありのままにおのれの状態を見ざるをえなくなる。行き止まりだからである。前方が開けているあいだは、その者は突き進む。壁があらわれたとき、人は間違っていたことに気づく。重要なのは、この間違いの責任は我々にはないことを知り、自身の失敗や後退に対してもまた聖なる無関心を貫き、主に情緒的な相反する対を為すものの中道を静かに確信をもって歩むことである。
助言を求められれば大体は答えてきた。その中でどのくらいの者が霊的な道をまだ歩んでいるのか知らない。確実に多くは諦めている。諦めるとは何の話か。諦められるようなものを獲得しようとしていたのか。霊的に揺るぎのない足取りを保ち続ける者とは、幸運なことに、他に道がない者である。人間的ないしは個人的な視界が前方には開けていない者である。だから踵を返し、客観から主観へと向かおうとする衝動が生まれた。周囲の人間を見てみるといい。欲しいものに生きている。嬉しさや、楽しさや、快楽や、幸福を求める個人に生きている。子供と何ら変わりはない。個人的な目的へと意志が突き進むよう、猛烈に条件づけられている。その条件づけのなかで、霊的な獲得を思いつく者も多い。彼らの視界はなお個人的なものであり、それが否定された結果としてのものではない。ここの識別がしばしば初心者には難しいため、諦めるということが起きる。
ニサルガダッタは、見出さないなら死ぬしかないと思ったと言っている。こうなるのが普通である。他のものにはもはや耐えられない。決して満たされぬことを知っているからである。したがって、人間的なものは経験し尽くしたのであり、人間的なものからもたらされるのは虚無と苦痛のみである。
人生のスランプと霊的スランプが重なり合い、不幸がどっと押し寄せてきて、身じろぎもならぬひとり涙の男が、ここしばらく熱心に助言を求めてきた。「どうにもならない」と。これには驚いた。「どうにかしよう」としているのである。打開させるのは神である。人間が無抵抗の意味を学ぶまで、なんと長く辛いことか。神は周期や繰り返しを通して教える。どうにもならない時は、どうにもならないでいい。間違いを犯すことすらカルマである。普通の人は、何かしら不幸が起きた後に、何のカルマかと考える。すべての行為がカルマを生み出すが、そのようなすべての行為へ条件づけるのもカルマである。特定の独立した一箇のカルマというものは本当はないことが知られねばならない。もちろん、初心者には個人のカルマという小さな視点で教える場合が多いが、理解できる者は、個人が存在しないように、カルマもまた全体的なものであるという視点を受け入れねばならない。一のなかに独立したものは何もない。すべてが連関し合っており、世界には世界のカルマがある。小さなカルマはより大きなカルマの部分であり、これにはキリがない。したがって、我々は自身の失敗に嘆いたり責任を感じたりする必要はない。時間の無駄である。
瞑想する者が見出すのは、世界からの撤退である。進んで関与しなくなる。それは不活発ゆえではなく、世界の背後に我すなわち実在を知り、その実在つまり神が完璧であることを理解するからである。法則が狂うことはない。これらを見抜いたとき、我々は「どうにかしよう」と足掻くことがなくなるだろう。「どうでもいい」と思うようになるだろう。それは不貞腐れた自棄の精神ではなく、法則と整列している魂の無関心の結果である。「どうにもならない」でいい。恐れる必要はない。スランプや上がり下がりの波は周期的なものでしかなく、誰にでも繰り返し訪れる。「あなたにも起こるのか」と言われたから起こると答えた。しかし違うのは、私が足掻かないことである。私は不幸に騙されない。実際に起こっているとも思わない。見た目の上では起きていると言えるであろうが、私は魂に整列しているため、と言うよりも魂であるため、何が起ころうが強烈に無関心である。すべてに神の働きを見て、法則の完全さを見て、わたしじしんはなお至福のままである。世界から自由なままである。なぜなら最初から自由であることを知っているからである。
「それはあなたに可能な話であって、私にではない」と彼は言い、もはや助言を求めることはなくなった。アストラル体が未統御であるゆえこうして捨て鉢になるのである。しばらくの自己憐憫の後に戻ってくればよいが。このまま破れかぶれの生き方をしても何の価値もないことは本人も分かっているが、どうしようもないと言う。それでいいのではないのか。不謹慎に聞こえるかもしれないが、我々は100%無力である。自我は巻き返す力を持たない。そう思わないと反論された。強い意志さえあればと。そのような意志の源は自我ではない。またそのような力を呼び起こすテクニックとして、抵抗ではなく無抵抗を学ぶべきである。あるがまま。このようにしてのみ、自我は真我と一致しゆくのである。
すべては、真我の上で表面的に起こっているにすぎず、その領域でどうこうしようとしてどうしますか。不幸や「スランプ」に騙されてはならない。然るべき学びの後、必ずより高い螺旋上にて戻ってくることができる。「あなたはできるが私はできない」と言い、自分に対処が不可能だと思うのならば、不可能だったことを認めるべきである。しかし、不可能を可能にしようと自我でしているではないか。自我が自身の不可能性を悟り、静かになったとき、真我は立ち現れるのである。だから、不幸を利用せよと私は言うのである。個人が順風満帆であってどうして霊的な道を歩めるであろうか。自我の壁にぶつかるからこそ、そしてその忌むべき虚無感に襲われるからこそ、本物を求めようと思えるのではないのか。見ようとするならば、あらゆる物事から教訓が見える。学ぼうとするならば、あらゆる日々の出来事から真理を学べる。これが利用である。起きることを利用して学ぶのである。しかし、見ようとしないものに対して、これ以上なにが言えるであろうか。
