「相反する対をなすもの」の解説

二重性を通しての魂の統一というパラドクスを理解するのが困難な理由は、相反する対をなすものについて語るときに、アストラル的な二重性、そしてそれらの間の狭き道を人類が選択することが必要であるということが、長きにわたって強調されてきたためである。二重性という戦場に立ち、自らの前に開ける剃刀の刃のように細い道を見出し、イニシエーションの門へと辿り着かねばならない。しかし、本質的には、これらの相反する対をなすものは高位の聖なる対応物の反映でしかない。ここで考察している法則は、生命と形態、霊と物質の関係を支配する法則である。なぜなら、自らの生活において二重性の低位の反映を超越し終えたイニシエートたちだけが、魂による統御のためにこの規定(大いなる二重性の相互作用という規定)の真の意義を、そのより広いより本質的な意味において把握し始めることができるからである。したがって、この論文においてはその難解な疑問に足を踏み入れる必要はない。

ジュワル・クール「秘教心理学・第二巻上」p.311

「相反する対をなすもの」という専門用語の意味がはっきり掴めないと質問があったゆえ、主に知っておくべきものをいくつか簡単に解説したい。

目次

肉体とエーテル体

これは第一イニシエーションと関係がある。肉体を組み立てているのはその原子質料である。この質料にそもそもカルマ的に内在している衝動つまり我々が「悪」とか「獣性」とか呼ぶものに肉体は自動的に条件づけられるようになる。低い意識段階の時代、人は純粋に動物的な肉的欲求の奴隷となる。大食や色欲などしばしば宗教が戒めているような類いの罪である。罪と呼んでいるのは宗教であり、賢明な弟子はその種のフォースをありのままに見て、ただ魂の位置から統御することをオカルト的に学ぶであろう。第一イニシエーションを受ける前であるならば、よく知られているように、病的な菜食主義や断食を敢行したり、独身主義や狂気じみた潔癖を鉄の意志で貫いたりと、肉体に関する相反する対をなすもののバランスが誤解釈されて行き過ぎになることがあるが、いずれにせよ、より高位の衝動に感応できる肉体という器に仕上げたいという欲求が勝るようになる。このような高位の欲求が芽生え始めたとき、エーテル体のフォースと肉体のフォースが衝突するようになるのである。この二つ、つまり相反する対をなすものは、二重性を通しての魂の統一により解消されねばならない。

肉体とアストラル体

より発達した人間意識の時代、人は低位アストラル界から発せられるフォースの奴隷となる。この理解と超越は第二イニシエーションと関係がある。この時代の「悪」は、欲求と情緒の世界である。それらはアストラル色の強いフォースであるが、人間が見習いの道に入り、魂との接触を拡大したとき、その魂の位置から眉間を通して太陽叢に集中しているその種のフォースをハート・センターに引き上げ調和へと解消できるようになる。これは明確にアストラル・フォースに対する魂のエネルギーの適用というかたちを取る。それは、ただ見ることである。ただ気づいていることである。というのも、そのとき弟子は魂であるため、エネルギーは思考に従うというオカルトの公理が、意識を対象に向けるというただそれだけで、フォースに対するエネルギーの適用が即座に起こり、自動的に統御されるようになるからである。したがって肉体はアストラル・フォースの奴隷ではなくなる。肉体を支配するのは魂のエネルギーになり、アストラル的な上がり下がりというものはなくなり、常に亡骸の心電図めいて一定になり、脈打たなくなり、人間は情緒的に死人のように冷静になる。しばしば弟子やイニシエートがよそよそしく感じられるのは、彼らが人間的ではないからである。

「高位の聖なる対応物」

順番に、メンタル体と肉体という相反する対をなすものについて解説しようと思ったが、上記の二つを含めてその三つで魂とパーソナリティーという相反する対をなすものがついに解消されると言うにとどめおく。これは第三イニシエーションと関係がある。人間はこうして魂になる。このときおそらく最初に理解される相反する対をなすものは、統御された低位のパーソナリティーと、高位のパーソナリティーである霊的トライアドである。肉体・アストラル体・メンタル体は、各々が対応するマナス・ブッディ・アートマの新しい三位に取って代わられることの必要性を弟子は認識する。というのも、低位我の三重のフォースという歪曲ないし誤解釈は、純粋さを遡ればそれらに行き着くからである。次に、根本的な物質性質と完全に純粋な霊的性質という相反する対をなすものが魂を介して理解されるようになる。霊と物質、生命と形態の違いであるが、実在と非実在、実相と仮相、永遠性と一時性、進化と退化、無限と有限、偽物と本物、偽我と真我、あらゆる言い方が可能だが、それらが示すものであり、それだけが人間が理解すべき真の意味での相反する対をなすものであることが理解され、それらが統合され調和に至らねばならないことを理解する。つまり、神の意志がどのようなものであり、また神の計画がどのような規模やレベルの話であるのかを理解するようになる。このとき、人間つまり反映は見習いのオカルティストになるだろう。

最後に

自身がどの意識段階かで「相反する対をなすもの」の定義もしくは主目標は変わる。ほとんどの読者に当てはまるのはアストラル的な相反する対をなすものの中央の道を見つけ出すことである。それは、どちらにも振れない日常の態度、瞑想の延長である魂の態度によって達成されるものである。これが「自らの前に開ける剃刀の刃のように細い道」であり、しかし、その中道だけが安全な道であるというパラドクスを発見するであろう。このようにしてアンターカラナは構築され、人間と魂は繋がるようになるだろう。まだ繋がっていない方は、いま解説したことを日常で実践することで繋がってもらいたい。繋がっている人はその連結を強化し、調和を拡大し、拡大された意識からあるがままにものごとを観察し、学び取り、法則を選び取り、意志に倣い、神に到達してもらいたい。このようにして徐々に限定から解放されるであろう。無力から解放されるであろう。というのも、神は力を通して働くからである。

具体的な実践について分からないことがあるならば質問してください。

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