魂に疲労なし

疲労するとは、法則に沿った在り方から逸脱したということである。瞑想もしくは魂に習熟するようになるにつれ、あまたの発見があったものの、人間は元来、疲労しない生き物であるという発見はその中でも興味深いものであった。というのも、私は疲れやすかったからである。なぜ疲れるのか。なぜ疲れがやがて病気につながるのか。この理解のために、そして霊的な在り方を学ぶために、疲弊しやすい肉体や精神、そして第四光線のパーソナリティーで学ばねばならなかったことを理解した。法則と合致した在り方・生き方が実行されている場合、エネルギーとフォースに関して軋轢や摩擦はなく、意志に関して計画通りにエネルギーは滞りなく流れ、適切に表現されており、疲れるということは起こらないのである。

たとえ疲れた場合も、魂を介して真我と調和することで、疲労を即時に治癒できることも理解した。昔、あのドラクエだったか、コマンドの中に「めいそう」という技があり、それはHPを回復するというものであった。当時、親にクリアしてもらったぐらいだから、そもそも馬鹿馬鹿しい気分でやっていたが、「めいそう」で体力が回復するなどとは、あまりに子供騙しも甚だしく憤慨すらしたものである。しかし事実だった。制作陣ですら一人とてそれが事実であることを知らないだろう。「めいそう」とは、魂への整列を通した神の意志との一致であり、意志のエネルギーは当然ながら治療する能力、最高度の休息効果があるため、(病気のサインでもある)疲労を無効化することができる。

そのためには、パーソナリティーを魂が支配している必要がある。というのも、在り方や態度として、「聖なる無関心」が基調になっていなければならないからである。意志や法則は、好き嫌いを持たない。計画の実現へと向かう途上の見かけ上の浮沈に対して無関心である。なぜなら、計画が未遂に終わることはなく成功は約束されているからである。なぜなら、いかなる途上の浮沈や遅延(それは我々の解釈にすぎない概念であるが)もまた計画の一部だからである。

人は「モチベーションを保つのが難しい」と言う。それは個人の目的に生きているからである。そして目的に対する執着があるからである。純粋意志にそのようなものはない。純粋意志は神に方向づけられており、完璧であり、また非人格であり、いかなる執着も持ち得ない。意志はただ突き進む。それは川の流れと同じように、常に大海という共通の目的へと向かっているが、自然法則の中で急ぐこともなければ逡巡したり焦燥したりすることもない。ただ突き進む。非人格に。つまり個人性が入るときだけ流れは妨げられ、そこに摩擦と軋轢が起き、その副産物が疲労である。この「自身を主体とする行為者の感覚」が計画を妨げる原因であり、またカルマの発生源でもある。ここから我々は何が間違いであるかを注意深く日常の態度から学ばねばならない。疲労は間違いのサインである。

魂で人間を統御し、魂から人間体を動かし、動かしながらもなお魂に集中し、魂として在るならば、行われる行為に疲弊がついてくることはない。一般の人は、マラソン選手が長距離走では一番速いと思っている。あの人達は疲れながら走っているではないか。特別な訓練を受けた弟子ならば、全く疲れずに完走するだろう。その必要があればだが。しかし、オリンピックで金メダルを取るという個人的な目的は弟子の中にはない。金メダルとは自慢するためのものである。分離を知らない魂は誰に自慢することもない。

時間が来たため終わる。

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