今日、多くの教えが努力を強要するか、それを大前提だとみなしている。これは個人を自分だと思っている意識への低い教えである。だからといって軽視しているわけではない。その闇夜の時期は、肉体を自身と感じるため、努力や忍耐によって、精一杯の力でくぐり抜ける必要があるだろう。しかし、いつ闇夜の終わりが訪れるかは誰にも分からない。私は暗黒と絶望の真っ只中に、魂つまり真の自己を発見した。突然にである。真の我々は魂であり、その観点からすれば、すべては安全であり、個人に起こることは無関係にして架空であり、また個人が行うことや個人が感じることはすべて夢にして自作自演であり、心の深いところで魂的な安全性を知っていながら実行されている。今日、自殺せざるをえなかった人ですら、耐え難い苦痛や悲哀の中で肉体を死滅に追いやったかもしれないが、その背後では余裕だった。真の自己は、それを平気で無関心かつ無関係に眺めていた。今こそ、こっちの方が真我であることを認識しなければならない。
努力する教えは駄目だ。それは人間向けである。瞑想を瞑想から学び、魂を見出すことが先決であり、魂が自己であることが分かったならば、誰が努力するというのか。魂とは内なる覚者である。個人が魂と接触した後は、彼だけが個人に教える。これが沈黙の声である。あるいはイルミネーションである。我々は、頭を使わずして知ることができるようになるのである。どうして内なる覚者が努力するであろうか。彼はただ存在している。ただ気づいている。それだけだ。自分を一箇の人間とみなすならば努力が必要になるであろう。自身が魂であるならば、行為は終わったのである。何もする必要はない。それでいてこの世の幸福のすべてを凌駕する愛、喜び、至福に満たされる。これが極楽である。
そして、極楽の対義語が努力である。存在の対義語が行為である。神の意志の対義語が個人の自由意志である。明け渡しさえすれば天国や極楽であり、専門用語を使えばブッディ界が意識の焦点になる。ひとつ引用しよう。
私たちが自然の『主観的側面の中に生きる』ことが、いかなる意味においても可能になるのは、ブッディ界において機能し始めてからに限られる。また、霊的生命についての知識が増大し、さらにイニシエーションという門を明確に通過して第五王国へと入るに至って、はじめて、私たちは濃密な物質身体と生命体との区別を理解することができる。
ジュワル・クール「A Treatise on Cosmic Fire」p.604
これは想像するよりも簡単なことであるといずれ分かるだろう。魂の意識とはブッディの意識である。こうして人間は魂として人間から切り離される。解放にして自由である。もとよりそうであったことが知られるであろう。今もそうであるが、通常の人間の脳意識は、マインドの活発さによってこれを理解できない。だから瞑想がある。瞑想でアンターカラナを構築し始めるならば、上から新しいエネルギーが流れくることを確認するであろう。このようなエネルギーが個人を完全にオーバーシャドーするようになると、彼はこの世にありながら極楽を我が内に発見する。それは温泉を掘るようなものである。熱をもつエネルギーの湯にどっぷり浸かって、我至福なり、我極楽なりと言うであろう。マインドは超越され、ブッディ界のえも言われぬ調和の至福に我つまり低位我を忘れるであろう。
魂が努力しているであろうか。何もしていない。努力は、霊的な在り方から遠ざけて、自我を強化してしまうのである。いますぐ努力不要と私は言う。努力とは抵抗である。川の流れをあえて遡ろうとするようなものである。恐れず川に流されればそのまま大海に行き着く。このような教えのなんと少なきことか。行為するのは神である。神の意志、神のエネルギー、神の生命、神の第一様相が、すべてを行う者であり、すべての責任者である。これを理解するがゆえ、ラマナは、「世界のことは世界に任せよ」と言ったのである。それが最も賢明な態度である。自我は真我に明け渡し、真我の第一の様相にして表現である意志が、世界と個人の面倒を見ることを知らねばならない。
高位の意識に入りたいならば、高位のエネルギーをまず入れよ。高位のエネルギーなしに、我々は完全無力である。神は当たり前だが全知全能である。彼に任せることが正解であることをなぜ疑うであろうか。神ではなく、個人を崇拝し、個人で努力して、どうやって到達するであろうか。努力などの抵抗が止まねば、あるがままは知られぬままである。なぜ私がいま努力をテーマにしているのか。それは、あなた方が努力でどうにかしようとしているからである。個人は殺される側である。この聖なる死刑は確定している。この偽物ではなく、本物を知るために、偽で足掻くことをやめるという知恵に到達すべきである。こんなにも楽でいいのかと驚くであろう。なぜなら、この世のものと違って、それは努力なしに獲得されるからである。それは生得の財産であり、すべての人間に内在する天の富である。
